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UMPEI OHURA

ファッションデザイナー・大浦雲平が見据えるファッション文化の未来。

2021.06.25

Photo:Shinji Serizawa / Text:Yuichiro Tsuji

東京とパリを拠点にコレクションを展開するファッションブランド、CLOUD LOBBY(クラウドロビー)。そのデザイナーである大浦雲平さんが歩んできた道のりはストレートではない。目的に対しての視線は真っ直ぐだけど、いつの間にか足取りは斜めの方向に向かい、結果的に遠回りをして目的地にたどり着く。 だけど、その瞳の中に曇りは一切存在しない。純粋に、貪欲に、目標に向かう姿には、人を惹きつける何かがある。そして、大浦さんには遠回りをしてきたからこそ生まれた経験や粘り強さ、そして広い視点がある。そこで語られたファッション文化に対する考察には、鋭い指摘があった。 ファッションの未来を想像したとき、彼の頭の中にはどんな景色が描かれているのか? その未来について、大浦さんに語ってもらった。

ファッションショーには何物にも代えがたい快感がある。

大浦さんは小さな頃からアートに囲まれた生活をされていたそうですね。

大浦

父は美術家で、美大の教授もしていて、母は絵画教室を主宰していました。振り返ると、休日は美術館ばかり行っていて、それが風景として頭の中に残っています。

そうした環境は、ご自身の成長に影響を与えていますか?

大浦

間違いなくあったと思います。結果的に僕自身はファッションデザイナーをしていますし、弟が2人いるんですが、次男は脚本家、三男は料理人をしていて、みんな何かしらクリエイティブな仕事をしているんです。

ファッションデザイナーには小さい頃からなろうと思っていたんでしょうか?

大浦

小さい頃はパトカーが好きだったので、なんとなく刑事になりたいと思っていました(笑)。その後、野球をはじめてプロ野球選手になりたいと思ったときもあったので、小さな頃はファッションの“ファ”の字も考えていなかったですね。

でも母親が服好きで、昔の写真を見ていると結構いい服を着ていたんですよ。そうした母の影響もあって、服を着ることは好きでした。それから高校生になり、ある日いつものように渋谷や原宿へ買い物にでかけたら、まったく欲しい服が見つからなくて……。

突然そうなったんですか?

大浦

いきなりです。それまではアレも欲しい、コレも欲しいっていう状態だったのが、「だったら自分でつくればいい」と思うようになって、持っている服を解体して構造を調べたりとか、自分で手で縫いながら服をつくるようになりました。そうして、次第に高校卒業後は服飾の学校へ通いたいという気持ちが強まっていきました。

でも実際に入学されたのは東京造形大学。ファッションの学校ではなく、美大ですよね。

大浦

両親と話してそう決めました。服飾の道に進むのは反対ではないけど、美大であればアートやデザインに関して広義に学べる、というのが親の意見で、もっと広い視野で勉強できるということだったんです。

実際に入ってみてどうでしたか?

大浦

すごく楽しかったですね。入学して間も無く、ファッション系のサークルのビラを発見しました。そこには「みんなでファッションショーをやりませんか?」って書いてあって。その新歓コンパに参加したんですけど、学園祭でショーをやるという内容だったんです。美大だから服をデザインする人がいれば、舞台美術や映像をつくる人、照明さんや、プロデューサー的な立場でスポンサードしてくれる企業を見つけてくれる人など、いろんな人たちがいて、総合的なショーを企画していて。僕はそこでデザイナーをすることにしたんです。

なるほど。

大浦

そのサークルのいいところは、主役的なポジションを1、2年生に任せて、3、4年生はそのサポート役に回ること。だから1年生でいきなり服をつくらせてもらえて。

でも、いきなりそんな大役を任されて、ハードではなかったですか?

大浦

大変でした。ショーのコンセプトを考えたり、モデル探しも自分たちの役割だったので、みんな結構泣いていて、フェードアウトしていく人たちも少なくありませんでした……。学園祭に向けて段階的に準備をしていく中で、期日までにやらなきゃいけないことができていなかったりもして、上級生たちはそうした状況に対してお尻を叩く役割で。とにかく汗をかきながら、みんなで頑張るんです。

そうした経験が今でも活きている、と。

大浦

そうですね、あのときの体験がデザイナーとしての原風景になっています。ファッションショーのバックヤードって、何物にも代えがたい快感があるんです。当然みんなでショーをつくるわけですけど、デザイナーはその花形ですし、やり終わったあとにみんなで達成感を感じられる。そこまでの道のりは険しいんですが、やりきった爽快感は本当に最高で。あの感覚をまた味わいたくて、今ブランドをやっているくらいです。

目指すべき道がそこにあったんですね。

大浦

確実にありました。これは一生かけてでもやるべきだって。ショーをやることにファッションブランドを運営する意義があると今でも信じてますね。

「あなたの絵、わたしは嫌いだわ」

東京造形大学を卒業後、ベルギーのアントワープ王立芸術アカデミーに行かれてます。

大浦

やはり美大ではファッションの専門的な知識を学ぶことが難しかったし、ショーの経験は積めたとしても、技術的な部分で自分はまだまだ力不足だと感じていました。造形大にいた頃から、「やりたいことがあるなら海外に行きなさい」って親から小言のように言われていて、自分の中でも海外へ気持ちが向いていたというのもあります。ある日、父親がアントワープアカデミーの記事を見せてきたことがあって、それを読んで面白そうと思ったので門を叩いてみることにしました。

どんな記事だったんですか?

大浦

3人の日本人がアントワープを卒業したという内容で、一応美大だし、ファッション科もあって日本人も出ているから、いいなと思って。それとベルギーのアントワープっていう響きも、自分の中でなんだかしっくりきたというか。安直ですけどね(笑)。それで一度、学校見学をするためにベルギーに行ったのですが、ここで学びたいという思いがより強くなったので、造形大在学中に受験の準備を進めていきました。

試験では、絵を描く実技と、自分の作品を見せながらの面接がありました。実技は造形大での経験でなんとかいけると思っていて、課題は作品の方でした。当時の僕には服の技術がなかったので、服をつくってもいい結果を出すことは難しいと思ったのです。

大浦

それで、移動式のカフェをやることにしたんです。毎月1回、どこかでオープンするというコンセプトで、椅子やテーブル、お皿を自分たちでつくって、服も1型だけデザインして、そこで展示販売をしました。それを1年間続けて。この冊子はその活動をまとめたものです。

それを面接のための材料にしたということですね。

大浦

服をデザインして売るということは、毎月10~15着くらいは縫わないといけない。そうなると、年間120着以上は自分の手で縫って売ったということになりますよね。それができれば服好きが伝わると思ったし、自分でもファッションに対する情熱を再確認できると思って。世界中から意欲的な学生がそこに集まる中で、もしかしたら光るものを見出してもらえるかなと。結局、最終的には15型くらいの服をつくって、無事入学することができました。

実際に入ってみてどうでしたか?

大浦

もうめちゃくちゃハードでした。結局中退しちゃったんですけど(笑)、とにかく超ストイックなんです。例えば授業でデッサンを描いたとして、先生がいきなり「あなたの絵、わたしは嫌いだわ」って言ってくるんですよ。僕は美大を出ているからそこそこ上手い線を描いてるはずなんだけど、僕の絵は嫌いだから点数をつけないと言われたんです。

かなり主観的ですね。

大浦

王立なのでとにかく優秀な人材を育成することが目的なんです。だから辞めさせることをある程度念頭に置きながら指導するんです。1年に60人くらい学生を取るんですけど、卒業できるのは10人ほどで、本当に厳しい学校でした。それで1年生の終わりにはもうイヤになってしまって(笑)。そもそも僕は技術を勉強したくて来たのに、実際はデザイナーとしての美学や精神論に関する授業が多かった。それで中退することにしたんです。

東京に戻りたいと思うことはなかったんですか?

大浦

戻りたいとは思いませんでした。学校は辞めるけど、もともと4年制の大学だったこともあり、4年間は海外にいようと思っていて、なんとか残る方法を探していたところ、たまたま僕の住んでいるアパートの近くに、デザイナーのハイダー・アッカーマンのアトリエがあって、技術を学びたいと事情を説明したら運良く働かせてもらうことになりました。と言いつつも、実際は見習いみたいな仕事ばかり。結局、数ヶ月しか働いていないんですが、楽しかったですよ。

どうして数ヶ月だったんですか?

大浦

ちょうど夏休みの時期に、一度東京に戻ったんです。学校を辞めてアトリエで働いていることは親に伝えていたけど、その後どうするかをきちんと説明する必要があったので。だけど、僕が日本に戻っている間にアトリエがパリに移ってしまって。僕も急いで追いかけたんですが、すでに新しい見習いを雇ってしまったということだったんです。親に説明したばかりだったのに、また一から仕事を探さないといけなくなってしまって、たまたまパリに大学時代の先輩がいたので、その方を頼りにファッション系の仕事を紹介してもらって、Véronique Leroy(ヴェロニク ルロワ)というブランドで再び見習いとして働くことになりました。

和服と洋服の文化が交錯した上で、どういった表現をしたらいいか。

勉強をするために海外へ渡って、結局は仕事をしているわけですよね。気持ちとして学生気分は抜けていたんでしょうか?

大浦

抜けていたと思います。ただ、働いているとはいえ技術もなかったですし、大した給料ももらえない。それにフランス語も話すことができなかったので、語学学校にも通っていて。生活費を稼ぐためにバイトもしていました、日本食屋さんで5年ほど。

当時、大浦さんは20代後半ですよね?

大浦

フランスに渡ったのが26歳だったので、かなり焦ってました。

もし海外へ行かずに日本で勉強していれば、その年齢でファッションデザイナーとして活躍することもできたと思うんです。

大浦

そうですね。周りと比べて遠回りしていることは実感していました。目標に対する気持ちにブレはなかったんですけど、実際に世の中に出ることに対するリアリティが自分の中で欠けていたのは今でも反省するところ。とにかく海外で経験を積むことができれば、それをいつか還元できるだろうって、どこか夢見がちだったと思いますね。

それでも東京に戻る気はなかったわけですよね?

大浦

思わなかったですね。ただ、バイトしているときは複雑な気持ちでした、ビザを取得するのも大変でしたし。最終的にはパタンナーの学校へ通って資格を取得。そこからフリーランスのパタンナーとして活動をはじめて、ぼちぼち仕事を取れるようになり、それで食いつなぎながら自分のブランドをはじめる準備を進めていきました。

大浦さんが自身のブランドであるCLOUD LOBBYをスタートしたのはいつですか?

大浦

2013年です。パリにいるときでした。たまたまファッションのコンペがあって、それに参加するために5体の服をデザインしたんです。それが戻ってきたタイミングで、このまま終わらせるのはもったいないと思ったのと、日本にいる両親や知り合いにも「あいつ何やってるんだ?」って思われていたので、その5体からさらに型数を追加して、日本に戻ってプレゼンテーション形式で自分の服を発表したんです。それがブランドとしてのスタートですね。

どんなブランドにしようと思ったんでしょうか?

大浦

〈クラウドロビー〉という名前は以前から考えていて、クラウド、つまり「雲」はそのまま雲平という自分の名前から取りました。ロビーというのは空港のロビーですね。いろんな人が行き交って、出会ったり、別れたり、また戻って来たりする場所。人を連想する言葉だし、ブランドもそういうものにしたかったんです。テーマは旅する服。だけど機能的な意味合いではなく、ブランド自体が旅をしているようなイメージです。ある種、キャラバンをしているような感覚で、都市を転々としながら発表できたらいいなと思っています。

特定の拠点を設けないというイメージに近いですか?

大浦

そうですね。今は東京とパリの2拠点ですが、最終的にはどこにいてもいいようなブランドにしたい。小説家が旅をしながら文章を書くように、自分もいろんな場所でデザインして、その土地の空気や風土を服に反映させたいと思ってます。そういうのをぼんやり考えてますね。

東京とパリを行き来することで2つの視点が生まれると思うんです。東京からパリを眺めることができるし、その逆も然りですよね。パリから東京のファッションシーンを眺めたときに、どんなことを感じますか?

大浦

各土地でいろんな色があると思うんですが、東京はなぜだか色を感じないんです。例えばパリは古くてクラシックなものが好まれるし、パリコレでもそういったブランドが評価される。イタリアは派手でギラギラしているイメージだし、ニューヨークやロンドンは新人をフックアップして盛り上げています。

でも、東京だけは個性みたいなものを感じない。東京コレクションを見ていてもそう感じます。僕はいつも思うんです、もっといろんな場所でショーをやればいいのになって。パリは東京よりも狭い都市なのに、百貨店や美術館とか、至る所でショーを繰り広げています。それに地元の人たちもそうしたお祭りごとに関心があるんですよね。だけど、東京では一部の人たちだけで盛り上がっている感覚があって……。

ファッション文化があまり根付いていないと。

大浦

そうですね。だけど、それは当たり前だと思うんです。なぜなら日本は和服の文化だから。そうした歴史的背景をもう少し尊重したいと僕は考えていて、それは着物に回帰するという意味ではなく、和服と洋服の文化が交錯した上で、日本人としてどういった表現をしたらおもしろいか、それをもっと深掘りしたいと思っています。

歴史的な文脈を捉えた上で、どういった表現ができるか模索したいと。

大浦

CLOUD LOBBYの服は、シルエットになるべくゆとりを持たせていて、あまり細かく刻んでいません。和服と洋服の大きな違いのひとつはパターンです。和服は直線的で生地もゆとりを多くとるのに対して、洋服は体にフィットするように細かなパーツを組み合わせている。服に限らず、日本人ってどこか余白を残すようなところがあるじゃないですか、間の文化というか。僕もそうしたことを意識しながら服をデザインしていましたし、それはパリにいたからこそ気づくことができました。それによって自分のポジションを明確にできた気がします。

実際に東京とパリを行き来していて、ご自身の活動にやりやすさを感じますか?

大浦

かなりフィットしていると思います。僕は日本とパリの両方で服の販売をしていますが、「2拠点って意味あるの?」って聞かれることがあるんです。その意味は間違いなくあって、デザイン画を描くだけなら日本でもできますけど、東京やパリで生活をしていることがクリエーションに繋がるんです。そこで呼吸をして、景色を見て、ローカルたちとのコミュニケーションからインスピレーションが生まれる。両方のいいところを味わうために行き来しているので。だから、ひとつの拠点だけだと自分の場合は視野が狭まるというか、2つの拠点を持っているからこそ生まれるものを大事にしたいと思ってます。

ゲリラ的に敢行したから、逮捕されるかも? と不安だった。

ブランドをやっていて、大きな転機になったことはありますか?

大浦

2015年にパリの最高裁判所でショーをやったことですね。当時はまだ就労ビザを持っていてなくて、それを獲得するためにやったショーです。当時、日本の企業からスポンサードしてもらって、パリで会社をつくるために準備をしていたんですけど、途中でそのスポンサーが降りてしまって話が白紙に戻ってしまったんです。しかもそのときに持っていたビザは、あくまで準備のためのもので、現地で就労することができないものだったので、まったく身動きが取れない状態になってしまって。それでビザのタイトルを就労可能なものに変更しようと役所に行って手続きを済ませたんですが、いくら待っても連絡が来ない。そうこうしている間に滞在の期限が切れてしまって、役所に何度も問い合わせたんですが、全然請け合ってくれなくて。

それは役所側になんらかのミスがあったということですか?

大浦

おそらくそうだと思います。だから弁護士を立てて、きちんと話をしようと思いました。弁護士曰く、「何かしらのアクションを起こさないといけない」ということで、裁判所でのショーを提案してくれたんです。服やスタッフの手配は僕らがやって、あとは弁護士がいろいろ手続きをするとのことで当日を迎えたんですが、いざ裁判所へ行くと、AFPやパリジャン紙などメディア関係者がそこで待ち構えていて。ゲリラ的に敢行したので、逮捕されるかも? と不安だったんですが、警備員もいましたが何も言ってこなくて、それも弁護士が根回しをしてくれていたみたいなんです。何事もなくショーを終えることができて、翌日にはメディアもそれを報じてくれて、結果的に大成功。無事にビザも獲得することができました。

そうしたことができるのは、やはりファッションの文化が根付いているからですよね。

大浦

そうですね。弁護士がピンときたのも、彼が最高裁判所というショーのための最適な会場を利用できる権限を持っていたのと、僕自身がデザイナーの卵で、その要素を組み合わせることでフランスの根深い問題である外国人の不法滞在や就労ビザ取得に対する問題提起ができると考えたのでしょう。今でもあの時の事を思い出しますし、ショーに関わってくれたすべての人に感謝しています。

ファッションの力で社会に対して問題を投げかけることができるのはいいことですよね。日本ではそうした発信が上手にできない空気があります。それは発信する側だけの問題ではなく、受け取る側にもまだ受け皿がないというか。

大浦

日本はどうしても言葉やキーワードがひとり歩きしちゃう傾向にあると思います。例えば「SDGs」という言葉も、海外ではその意味を咀嚼してきちんと理解されているのに、日本ではトレンドとして消化されてしまう。それは今後変えていく必要があると思います。

今までスポットが当たってなかったところに光を当てる。

表現者として、これからチャレンジしたいことはありますか?

大浦

今って大量生産・大量消費の時代で、服の価格がどんどん崩れていってますよね。僕は新品の服が何百円とか数千円で売られる現状を見て、その背景で服をつくっている人たちのことをよく考えるんです。僕自身はそうした職人たちとコラボレーションしている感覚でものづくりをしています。今まではファッションが生まれる背景を隠すことが美学だったのかもしれないけど、僕はその逆をしたいと思っています。

そのためになにかしていることはあるんですか?

大浦

stitch(スティッチ)というスタートアップ企業と一緒にファッションのアプリケーションの開発に取り組んでいます。そこでは服が生まれる背景というか、顔が見えることをしたいんです。

トレーサビリティということですか?

大浦

そうです。農業と同じようなことをファッションにも導入すべきだと思っていて。お金をもらう以上、その価値をきちんと提示すべきだと感じているんです。服が生まれる過程にも価値はあって、それを具現化するアプリケーションをつくってます。例えば、ひとつの服に対して、糸の説明や、それをつくっている人たちの説明がどんどん出てきたり、糸から検索して服にたどり着くことができれば、逆にデザイナーの頭の中を可視化して、そこから糸に辿り着いたり。そうやっていろんな方向から辿れるものにしたい。

アプリというよりも、メディアを立ち上げる感じですね。

大浦

それが将来やりたいことですね。だけど一方ではフィジカルも大事だと思っていて、デジタルで集まった人たちが、それをフィジカルでも触れられる箱をつくりたいんです。だから、お店も東京とパリにつくりたいと思ってます。そこでコミュニティが生まれて、何か新しいものを発信できるようにしていきたい。ファッションに限らず、アートや音楽、美容、飲食など、いろんなものが混ざりあって化学反応が起きればいいと思っています。

大浦

それをするための第一歩として、まずはアプリケーションを完成させるのが目の前にある目標です。僕だけが主役じゃなくて、今までスポットが当たってなかったところに光を当てる。そうすることで、その人たちのモチベーションにもなりますし、それが巡ってエンドユーザーの方々も服の価値を理解できるようになれば、みんなが幸せになれる。今までなかったことができるようになると信じています。

この映像は、2021年6月に開催された展示会の様子をデジタルファッションショーとしてまとめたものです。

CLOUD LOBBY DESIGNER

大浦雲平

東京都出身。東京造形大学卒業後、2004年にベルギーのアントワープ王立アカデミーモード科に入学。その後、2006年よりハイダー・アッカーマンや、ヴェロニク ルロワの元で経験を積む。2009年には、A.I.C.P(アカデミーインターナショナルクープドパリ)にてパタンナーの資格を取得後、Dior、YVES SAINT LAURENT等の生産会社「LAZAR CUKOVIC COUTURE」のパターンチームに所属。以後、様々なブランドにてパタンナー職に就く。2013年より自身のブランドであるCLOUD LOBBYを立ち上げ、現在は東京とパリを拠点にクリエーションを展開している。

Instagram:@Umpei Ohura(https://www.instagram.com/cloud_lobby_umpei/

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次の東京を創造していく表現者にスポットを当てたインタビューコンテンツ。