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Daichi Yamamoto

貪欲に音楽と向き合い続けるラッパー、Daichi Yamamotoの過去・現在・未来。

2021.02.05

Photo:Yuki Hori / Text:meiji (marble studio)

日本の音楽シーンを支える父とジャマイカ出身の母を持つDaichi Yamamotoは、自身のDNAと脳裏に刷り込まれた多彩な音楽性をグルーヴィーにアウトプットする、稀代のラッパーである。 Daichi Yamamotoの名前を初めて聞いたのは、まだ彼がロンドンに留学している頃のこと、という人も少なくないだろう。JJJを客演に迎えた「She」は、当時まだ音楽活動を初めて間もないながら、トラックメイキング、ラップともに才能の片鱗を覗かせ、プラットフォームがSoundCloudにもかかわらず、再生回数は34万回を超えている。 帰国後、Jazzy Sportから発表したEPやアルバムは軒並み、耳の肥えた音好きからも高評価を獲得し、昨年はSpotifyが注目する次世代アーティスト10組 「Early Noise」にも選出。さらには、NBA選手の八村塁が出演するTV CMにも楽曲を提供と、その勢いは止まるところを知らない。 そんなUK帰りのヒップホップアーティストに、これまでの遍歴や音楽へのアプローチ、そして今後の展望を尋ねた。

ヒップホップの洗礼を受けた小学生時代。

Daichiさんは、父親が日本最古のクラブ・京都『メトロ』のオーナーのニック山本さんで、母親がレゲエの国ジャマイカのご出身ですよね。やはり、小さい頃から音楽は身近な存在だったのでしょうか?

Daichi

確かに、家では色々な音楽が流れていましたけど、当時の僕がそれに聴き入ることはなくて、父が聴いていた音楽を聴くようになったのは、結構あとのことです。最初は兄がヒップホップを聴いていて、「横の部屋からうるさい音楽が流れてるな」程度だったのですが、次第にそれが気になりだして、兄がいないときにカセットを勝手に借りて、聴くようになりました。それが小学校高学年のことで、具体的なアーティストで言うと、ドクター・ドレーをはじめとした90年代のヒップホップでしたね。

実際にラッパーを志したのはいつ頃ですか?

Daichi

中学生の頃からラップしてみたいという気持ちはあったんですけど、当時は恥ずかしくて、しばらくは心の中でソッと温めていました(笑)。その年齢ぐらいから、Shing02さんのライブなどを観に行くようになって、より刺激を受けてラップをやりたいという想いが強くなっていき、実際に志したのは高校卒業後になります。

でも、高校卒業後はイギリスに留学して、ラップではなく、現地でアートの勉強をされていたとか。

Daichi

もちろん毎日、学校は行っていましたけど、イギリスは18歳から飲酒が合法なので、大学内にパブがあって、振り返ってみると毎日お酒ばかり飲んでいたかもしれません(笑)。ただ、そこは違う学科の人とも出会える交流の場で、今でも連絡を取る仲間ができました。コロナのパンデミックが始まる前に現地の友達が来日した時には、一緒に「One Way」のミュージックビデオを作りました。

イギリス留学で特に印象的な出来事はありますか?

Daichi

何より、音楽面でも、生活面でも、大学の先生が色々なことに対してサポートをしてくれたことには今でも感謝しています。ギャラリーやイベントには毎日のように行っていましたし、ダニエル・シーザーをはじめ、有名なアーティストのライブを生で観る機会もありました。印象的なのは、イギリスで出会った人達や他の学生が、好んでUSヒップホップをあまり聴かないところですかね(笑)。イギリスには文化として音楽の歴史があるから、プライドがあるのかもしれません。みんな年代もジャンルもバラバラな音楽を聴いていて、ただ新しいだけのことやメジャーな音楽に対して距離を置いてる人が多くて。そういったカルチャーに対してヒップスターと揶揄してるのを良く耳にして、自分もヒップスターと言われないように必死に背伸びしていた時もありました(笑)。

1st Album『Andless』

留学中も、SoundCloudからJJJと「She」をリリースされるなど、学業と並行しながらアーティスト活動をされていましたが、1stアルバム『Andless』のリリースは、帰国後「Jazzy Sport」に加わってから約2年が経過した2019年でした。その頃にはすでに仙人掌、Kojoe、STUTSら、昨今のヒップホップシーンを担うアーティストと仕事をされていたわけですが、本作は1stアルバムということもあり、気負いも含め、色々な気持ちと向き合ったのではないでしょうか。

Daichi

今まであまりリリックに気を遣っていなかったんですけど、1stアルバムぐらいからそこも意識して作るようになり、何度も壁にぶつかりながらトライ&エラーを繰り返していました。1stだったので、自分のやっていることや進んでいる方向の善し悪しが分からなくなるタイミングもありましたし、約1年の制作期間で、点で見れば迷走した時期もあり、苦労は少なくなかったですね。とにかく、がむしゃらに曲を作り続けて、自分の内に支えているものを取り出していくような作業が続いたんですけど、最終的に全て吐き切ったあとはハッピーな気持ちでした。それで、いざ作品をまとめるときに、最後に収録されている「Undress」を録り、客演のAi Kuwabaraさんのピアノに乗せて、そのときの気持ちをシンプルに、言葉数少なく、リリックにしました。

EP『Elephant In My Room』

そして、2020年には最新EP『Elephant In My Room』を発表されました。アーティストとしてはライブもできなかったりと、決して楽な1年ではなかったと思うのですが、そんな中での制作を今一度、振り返っていただけますか。

Daichi

行動に制限がかかったこともあり、歌詞を含め、時間をかけて1曲1曲丁寧に作れたことは、とてもポジティブに捉えています。なので、1stよりも完成度には納得しています。確かに、制作状況が1stと大きく異なったのは事実ですけど、それも結果オーライだったというか、自由に外を出歩くことで得ていたインスピレーションがないことが逆にインスピレーションになりましたね。向き合い方の変化が新しいものを生んで、自分の内深くから絞り出したり。

1stはDaichiさんの音楽的な多様性を感じたのですが、一転、『Elephant In My Room』は意識的に狭めたのか、すごくアルバムとして濃厚な印象を受けました。

Daichi

個人的なストーリーを1stほど語ってはいないので、リリックは具体的ではなく、意識的に少しぼかしたんですけど、音楽のグルーヴやテイストは『Elephant In My Room』の方がより自分らしさを表現できたと思います。後談ですが、近しい友人や関係者の方々は2ndの出来を高く評価してくれた一方で、音楽を通してのみ僕を知ってくれている方たちからは「1stの方が良かった」と、意見が分かれたのは興味深かったですね。曲ベースで言及するのであれば、2曲目の「Netsukikyu」はそのときに形にしたかったものを作ることができた自信作です。歌詞が耳に入ってくるよりは、音楽が前に立つような構成で、歌詞を読んだらストーリーを感じてもらえるようなバランス感で仕上げることができました。

時間に縛られないことで発揮されるクリエイティビティ。

ここで、少し話しをロンドンで学んでいたアートに戻したいのですが、渡英して学ぶほど、アートにも並々ならぬ熱意があったはずです。Daichi Yamamotoのアートにまつわるエピソードについても聞かせていただけますか?

Daichi

小学生の頃は漫画家になりたかったんです。でも、兄に馬鹿にされて「絶対に止めておけ」と(笑)。アートへの関心は、中学の美術ですね。最終学年の頃、教室が荒れちゃって、美術のクラスが上手く回らなくなり、外部から新しい先生を招くことになって。その先生は現役のアーティストだったので、授業も俗にいう義務教育の授業ではなく、すごく興味関心を駆り立てられる内容で、例えばバスキアの映画を観せてくれたりと、僕がバスキアを好きになったのもその先生がキッカケです。それまではアートの世界に黒人がいるというイメージが全くなかったから、あまり自分にリフレクトできなかったんですけど、バスキアに出会って、すごい勇気をもらいました。

でも、イギリスではインタラクティブアート、鑑賞者の参加型のアートを専攻されていたそうですね。

Daichi

元々はサウンドアートの学部に入ろうとオープンキャンパスに行ったんですけど、説明会がこれでもかと言うほどにつまらなくて、「俺は何しに来たんだろう…」とトンボ帰りも覚悟しました(笑)。でも、オープンキャンパスのルールで、他のクラスにも参加しなくてはいけなく、たまたま「インタラクティブデザイン」という学部を見かけて、言葉だけでは全貌が掴めず、何気なく覗いてみたらそれが面白くて。僕はペインティング然り、言語化しにくいアートを作家自らが理解されにくいように作って、教養のある人だけが分かるようにするスタンスに疑問を抱いていました。でも、インタラクティブはその感覚がありつつも、デザインを分かりやすく伝えるバランス感覚にグッと引き込まれましたし、元々インスタレーションが好きだったので、共感を持てたような気がします。フランスのワイン会社の協力のもと、ボトルに手をかざすとコルク音が鳴る「Dégorgement」や、1枚5円程度でレコードを売っている場所があったので、大量に買ってきてバキバキに割って、自由に組み合わせて針を落としてもらう「Broken Records」をスウェーデン出身のシンガー・toffeのリリースパーティで展示したりしました。

音楽、アートと表現の二面性を持つDaichiさんですが、両立する術や今後の展望について考えることはありますか?

Daichi

少し前までは音楽とアート活動をどのようにコネクトできるか考えていたんですけど、最近は別に無理に繋げなくてもいいかなと思うようになってきました。5年後、10年後も時間に縛られることなく良い音楽を作り続けたいし、音楽活動の隙間を見つけてアート作品も作れたらいいなと思っています。ただ、今まではその場に誰かがいると緊張してしまうので、トラックの制作もレコーディングも自宅で1人で行っていたんですけど、現在の環境とは違う環境で音楽を制作すれば、曲そのものも違うものになるだろうし、最近はスタジオに入って作るのも楽しそうだなと思うようになったので、音楽的な新しいアプローチにも挑戦してみようかと思っています。

最後に、Daichiさんにとって「TOKYO」とはどんな街ですか?

Daichi

とにかく速い、ですね。移り変わりも、人が歩くスピードも。その点、今住んでいる京都は、敬遠しているわけではないですけど、最初は新しいものと距離をとって、ゆっくり吸収していくようなイメージ。そういう意味で、東京と京都、2つを行き来する生活は刺激になりますね。

RAPPER

Daichi Yamamoto

京都生まれのラッパー。日本人の父とジャマイカ人の母を持つ。2012年からロンドン芸術大学にてインタラクティブ・アートを学び、2017年10月イギリスから帰国しJAZZY SPORTに所属。2019年に発表したデジタル・シングル「上海バンド」が、Apple Music「今週のNEW ARTIST」にも選出され、国内外からも注目を集める。同年9月に1st アルバム『Andless』をリリースし、12月には渋谷「WWW」と京都「Metro」にてリリースライブを開催。翌年1月には、「Spotify」が選ぶ、今年飛躍が期待される注目の新進気鋭・国内アーティスト10組「Early Noise 2020」に選出された他、NBA八村塁選手出演の大正製薬「リポビタンD」TVCMや、Netflixキャンペーンへの参加を果たす。2020年8月にはEP『Elephant In My Room』、11月にはシングル「Paradise Feat. mabanua」をリリース。

Instagram:@daichibarnett(https://www.instagram.com/daichibarnett/

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次の東京を創造していく表現者にスポットを当てたインタビューコンテンツ。