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高木完『ロックとロールのあいだには、、、』

第12回の4:青木和義さんは、葡萄畑で『がきデカ』のイメージソングを担当した

2022.09.28

Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ

奥平イラさんとともに、短命に終わったニューウェーブ黎明期の幻のバンド、メトロポリスにて活動していた青木和義さんを、70年代を代表するバンド、葡萄畑の主要メンバーとして記憶している人も多いと思う。

映画『星くず兄弟の伝説』の相方、久保田慎吾は加藤和彦さんと共に影響を受けたアーチストとして青木さんの名を常にあげていたが、自分は慎吾からその名前を聞く前に葡萄畑のシングルを買っていた。それは人気漫画『がきデカ』のイメージソング?的なシングル(「恐怖のこまわり君」)で、中学の頃、手に入れていたのだ。

しかし、その曲が10ccのカヴァーである、なんてことは全く気がついていなかった。青木和義さんに話を聞いた。

「この曲、あまり好意的に受け入れられなかったんですよ。それまでのファンに。僕なんかは(『がきデカ』の作者、山上たつひこの)『喜劇新思想体系』も含め、すごいはまっていたから最初話が来たときすごい喜んだんです。ちょうど僕らも10cc、ロキシー・ミュージック、スパークスとかそう言った諧謔的指向性のバンドをチェックし始めていたので、引き受けようって言って、山上先生のところに会いに行ったんです。ファンだからサインもして貰おうって行ったんですが、あまりそんなかんじじゃなくて。僕らがやろうと思っていたことも禁止事項って言われちゃったんです。「帰ってきたヨッパライ」みたいなテ―プの早回しだけはしないでくれって。まさにそれをやってみたかったんです。ロックでやってみたかったんです。しかも10ccみたいなパロディ・ソングにしたくて、いろんな昔のポップスとかから引用しながらって考えていたら、10ccが一番ハマったんですね。『シリー!』ってのと『死刑!』ってのがハマって。そんな訳で、10ccのパロデイ・ソングをパロディするというコンセプトで、規定ギリギリにパロディってみたんです。ものすごく緻密に旋律を調整したんですが、残念ながらカヴァーの範疇にハマってしまいました(苦笑)」

10ccの「シリー・ラブ」はアルバム『シート・ミュージック』に収録されている曲だ。このカヴァーに自分が気づいたのはつい最近のことだが、そもそも何故これがファンに受け入れられなかったのだろう?

「その後のタイアップ戦略の隆盛を考えると信じられませんが、『ロック路線を貫いてきたバンドが、このタイアップはないよな』と考えるファンも多かったのかも知れませんね。しかし何と言っても、10ccが、日本でメジャーな評価を確立していなかった事も大きな要因だったのかな~と、今は思います」

葡萄畑の結成は1972年の春。青木さんは結成時には参加していない。そしてバンドの音楽性にも、当初は青木さんがおっしゃっているような諧謔的な雰囲気はなかった。

「僕はオールジャンル何でも聴いていた人間なんですけど、葡萄畑には後で参加したんで、もうある程度方向性は決まっていたんです。最初は曲だけ書いてくれって言われてたんですけど、出入りしていたら、夏に九州で合宿している時に、ラジオ局でスタジオ録音した音源を放送してくれるって話が来て。それでメンバーが足りないからってことで呼ばれたんです。その放送を聴いた人たちから『プロにならないか』という電話が何本かかかってきたんですよ」

葡萄畑の録音が流れた福岡RKBラジオの『スマッシュ!! 11』は1969年から86年まで放送されていた番組で、チュ―リップを始め、多くのバンド、ミュージシャンがここから人気を広げていった。

「僕はフジテレビの『ザ・ヒットパレード』から始まって、ビートルズに驚いてギター始めて、徐々にいろいろな音楽聴くようになって。大学入ってからはジャズとかブラジル音楽に傾倒しまして、ジャズ理論も勉強しました。バークリーメソッドとか。もともと譜面の読み書きは出来たんです。学校の授業で覚えたんですけど、音大行くつもりはなくてハコバンでギター弾いたりしていました」

青木さんの研究心がバンドにもたらしたものは大きかった。

「ザ・バンドもシングル盤持ってたし、好きでよく聴いていました。ジェームス・テイラーも聴いたら、コードとかモダンでいいなって思ったりして、代理コードとか。でもザ・バンドは別世界。コード展開もこう行くのかって感じ。GコードでDをベースにしていたり、Bをベースにしていたり、ゴスペル的なアプロ―チで、ベースラインを大事にしてるのがわかって、ザ・バンドみたいに今で言うアメリカーナ的な曲を作り始めて提供したのが、葡萄畑のファースト・アルバムだったんです」

青木さんの研究をもとに作られたのが葡萄畑のファースト・アルバムで、そのことを思えばセカンド・アルバムでの新たなアプローチにも納得がいく。

「セカンドの『スロー・モーション』は、僕の中では映画音楽的と言うか、アントニオ・カルロス・ジョビンとかニーノ・ロータとか、バーナード・ハーマンとか、伊福部昭さんとかが好きで、フィルム・ロックと言うイメージで作ったんです。ピアノの佐孝康夫は、お父さんが映画会社で仕事をしていた関係で映画音楽に精通していて、映画音楽好き同志、楽しみながら作りました。ギターの本間芳伸は、ロック・ギターのサントラ的アプローチに優れていて、アルバムのトータリティを高めてくれました。もちろん、ルパート・ホルムズ、10cc、ロキシー・ミュージック、スパークスなどのモダン・ロック名盤は、メンバー全員を奮い立たせてくれましたけれど」

ファーストとセカンドの変貌の理由がようやくわかってきた。葡萄畑がガラリと変わったのはそのせいだったのだ。

「僕はフォーク・ロックだったら、米国音楽系でなくむしろ英国トラッド系のフェアポート・コンベンションとかイアン・マシューズとか、英国音楽の方が好きだったんです。葡萄畑はドラムの武末充敏がリーダーで、彼がもともとはちみつぱいが好きで、そういう方向性で進めたかったそうですが、僕や佐孝や本間はあまりよく知らなくて。はっぴいえんども彼と知りあってから初めて聴いたくらいで。僕は、もともとフォークル(フォーク・クルセイダーズ)が好きだったから加藤和彦さんを一番尊敬してましたし、GSだったらスパイダースのかまやつさんが大好きだったんです」
「ちょうどその頃、はちみつぱいのライヴを観る機会があったのですが、唯一無二の素晴らしいライヴでした。この事が、葡萄畑ファースト・アルバムのオリジナリティを真剣に突き詰めるきっかけになったんです。諧謔性と言うキーワードが少しずつチラつき始めたと言う事ですね」

(つづく)

葡萄畑Recording at Polydor 1st Studio Jun 1973 , Photo by 成瀬正人

葡萄畑 at Polydor Rehersal Room 1975, Photo by DAISUKE

葡萄畑 at 多摩川河川敷 1975, Photo by DAISUKE

次回は10月26日、毎月第4水曜日更新です。お楽しみに!

高木完

たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。初の単行本『東京 in the Flesh』が発売中。

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。