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最果タヒ『MANGA ÷ POEM』

連載 第十六回:人類÷物語

2023.01.18

Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ

 人がどんどん死ぬ小説を書いた時にリアリティがないという批評がでて、でもその時に人がどんどん死ぬ事件が同じ新聞で報道されており、リアリティとはなんだろうと思った。でもこの世に起きる現実とは実はリアリティがなく、リアリティがないがために平穏に暮らしている人には想像できない暴力や悲しみや理不尽があり、想像ができないため二つの世界は分断されたように全く通じ合わないし、いつまでも互いを「フィクションみたい」と言い続ける。信じたくない現実を、人は「リアリティがない」と思うし、でもここをフィクションの力で信じさせようとするとき、必要なのはリアリティではないのかもしれないとたまに思う。(というより、信じさせたくてフィクションがあるわけではない。)自分の住んでる世界とは全く違う「現実」を信じたくなくて目を逸らそうとする人たちに、そうした世界を「見たい」と思わせるのは、「これも現実である」とより説得力をもって打ち出すのではなく、現実と地続きだということをまず一旦忘れさせるぐらい過剰な暴力と過剰な悲しみと過剰な理不尽でエンターテイメントにすることであったりもするのだろうか、と『忍者と極道』を読んでいて思った。本を閉じるとふと、なんでこんな破天荒な作品を自分は好んで読んでいるんだろう、と人の首が急に飛んだりはしない現実世界でコーヒーを飲みながら思ったりもするが、でもこの異次元の世界の中で、私は、結局登場人物たちが人間らしい感情を持っていることを面白さとして捉えているし、こんなにもダイレクトに人の心情を面白がれるのはこの設定があるからなのでは、と考えたりもする。自分の知らない世界から目を逸らしてしまうことは多くの人にあるはずで、そしてここは見なくてもいいとさえ思うことさえあるはずで、しかし勝手に自分が引いているその「境界線」を正義感や罪悪感ではなくて、好奇心をつつく形でゆさぶられるのは、なんだかすごく愉快だ。この物語の設定を面白がれるのは、この物語の設定のような世界と無縁で、ずっとそこから目を逸らして生きているからこそだと思うが、そのことをこれを機に批判的に言うのもなんだかくだらないなと思うし、この作品は態度を改めさせるためにあるわけでもない。というか、誰にでもあるそういう身勝手な「境界線」をゲラゲラ笑いながら指差して、そのしょうもなさごと何も言わず肩を叩いてくれるような、そんな友人のような態度がある。この世に生まれた限りはこの世にある地獄の全てを知るべきだと、「残酷な現実」の映像や写真を見ろ、聞け、知れ、と他人の顔を固定し、無理やりそちらに向け、目を閉じることすら許さない「正論」よりずっと正しいと私は思う。「お前は身勝手でずるくて、視野が狭いよ」と、ただ教えるか、それを理由に徹底して矯正という暴力を振るうのか。物語の力とは、「ただ教える」ができるからこそ美しく、そしてそれはとても稀なものだ。

 現実ではこんな世界はあり得ないと思っているが、そこと地続きの世界についても何も見えておらずわかっておらず、どこかでは現実と繋がっていると思いながら、想像するにはきっかけが極端すぎて純粋なエンタメとして楽しんでいる。ただし極端さそのものを面白がっているよりは、そこで見ているのは案外王道な「人の心」だとも思うのです。ここまで振り切ってしまうと、どこかで描かれているものを「理解したい」と思い、そしてそこで描かれているキャラクターの内面の問題をよりビビッドに感じられるようになる。そこにこの物語の面白さはあって、描かれている夢や挫折や憎しみや怒りや不幸は、他の物語に登場するよりむしろ直球に描かれているし、そして読んでいるとできる限りそれらを真っ正面から受け止めたくなる。リアリティを求めたり、己の都合の良さに反省したり、そういう「自分にとってこの作品はどうか」みたいな見方ではなくて、一人の人間に出会い、関わり友達になっていくみたいに、とにかく手放しでぶつかっていきたくなってしまう。そこにいる人たちも「生きている」、そう思えるのが嬉しくて、そのことばかりを大切にしたくなる。これは、リアリティとも多分全く違うものだ。自分の知らない感情がどこまでもビビッドで冴え渡ったままこちらにぶつかってくるのが、ショーのようで刺激的なのだ。感情が躍る舞台としてあるのが血みどろの世界観。少なくとも、私にとってこの作品はそうやって「楽しむ」ものだった。

 本当は自分の知らない世界にいる人たちを、「理解できる」なんて私は思わない。「この人も生きているんだ」と実感するのはとても難しいことだと思う。それは同じ世界に生きていても同じで、自分以外の人の気持ちを「わかる」なんて絶対あり得ないとさえ思っている。みんな育った場所も好きなものも学んだことも全部違うのだ、たとえ近くの人だって、みんな違う。同じことなんて一つも考えないし、好きになるものだってバラバラで、そういう他人のことをわからないままで「きみも生きているんだね」と受け入れるのはとても難しく、でも関わりとはそうやってしか作れない。同じものを食べたり同じものを見たり、時間を共有することで、絶対的に「他人」なままで相手のわからなさを尊重できるように少しずつなるのかもしれないって思う。共通点を見つけていくなんてことは限界があって、わからない人のことをわからないままで、ひたすら、わかろうとし続けることこそが「関わり」なんじゃないかって。そしてだから、同じ時間を共有することもできない遠くの人のことを、「自分と同じだ」と思いたがることは本当に残酷だと思うのです。たとえば全く違う世界を生きた凶悪犯に「この人にも悲しい過去があったんだろうな」と勝手に思うのは、あまりにも傲慢な態度だ、と思う。人の行動に理由を求めること、そこに物語性を感じて切なくなること。それは人の人生を勝手に消費する行いなのかもしれない。最初から人でなしだと決めつけて、わかろうとすることを放棄するのも勝手だけど、わかった気になるのもとても勝手なことだと思う。わからないのが怖いから、わかったつもりになりたくて、自分の想像に飛びついているだけ。知らない世界を見ようとし、そしてそこに本当の、勘違いや身勝手な解釈ではない「リアル」を感じることは、本当に難しいのだと思います。
 そして物語は、それらの不可能性をやすやすと飛び越えるから快感なんだろう。『忍者と極道』に出てくる人たちは「なぜそんなことをするのか」を読者にもわからせてくれる。描かれる感情は直球で、全てをそのまま受け止めたくなる。人を憎む、人を恨む、過去を憎む、過去を恨む、人を愛す、人を裏切る。その勢いの良さは、物語だからこそ見られるもの、こんな勢いよく、生きてきた人生の全てをこちらに開示し「納得」をくれるのは、彼らが物語のキャラクターだからだ。生身の人間に対してだと許されない「理解」を、彼らの勢いがむしろ遠慮なんてするなと引き摺り出してくれる。「知らない世界に飛び込む」ことをエンターテイメントとして完膚なきまでに楽しませてくれる。私はそれを否定できないし、物語だからいいのか?なんて絶対に言いたくないなって思う。人はわかりたいものだし、知りたいものだ、その気持ち全部がずるいものだとも思わない。それらを押し殺して他者を見つめようとする人のフラストレーションを思い切り発散させる、祭りみたいな作品だった。

 子供の頃、他人を助けたかったり優しくしたかったりして走り回ったことはあり、でもそれはどれもこれも自分が相手のことを何にも知らないのに、知らないってことに気付かずに、勝手に想像して勝手に憐憫して勝手に手を差し伸べようとしていただけに過ぎなかった。私は未熟だったし、人をそれで傷つけたこともあるだろう。次第にそんなことはしなくなった、人の気持ちがわかったつもりになるなんて、よくないんだと気づいたし、当時の私は安直だったと今でも思う。わかろうとすることはエゴだ、と思うたび、私はこのことを思い出している。あのころ、私は人をわかりたかったし、そしてわかるなら助けられるし仲良くなれると思った。助けたくて、仲良くしたかった。この気持ちそのものは悪じゃなかったと思うのです。

 現実では絶対に踏み込めないところまで、キャラクターはさらけ出してくれる。そして彼らがどうなろうがただ傍観するだけでいい私たちは、そもそもが彼らを踏み躙っていて、だから彼らの行動や生き様を心から受け止める、わかるよって叫べる、そして、そうやって他人に向き合えたらどれだけいいだろう、そういうふうにできるなら、もっと他人と深く関われるのではなんてたまに考える。他人はそんな簡単な存在じゃないから決して望めないけど、でもあのころの私は、助けたいという気持ちの強さだけで人が救えたらいいのに、と思っていた。想像して理解して、その人が求める一番の言葉をかけられたらいいのにな。あのころの願いが叶う夢を、見せるのが物語である気もしているのです。

『忍者と極道』、物語が物語だからこそ発散させられる人のエゴや願いが、ひしめきあっている、そんなの好きに決まっている。人が人として生きる上で耐えられない自分の勝手さや未熟さへのフラストレーションが、花火みたいに爆発して、ド派手な絵を描いて消える。人類に物語があってよかったな。物語なんていうはちゃめちゃな、人類にとって都合が良すぎる構造のものがあってよかった。人は完璧ではないし、気をつけないと簡単に他者を踏み躙ってしまう。でも、そんな生き物でよかったと、物語に触れた瞬間はすこしだけ、思ったりする。人が人であることを楽しむためにあるのが物語なのかもしれないな。



・『忍者と極道』(近藤信輔・著)公式Twitter
https://twitter.com/nin_goku


次回は2月15日、毎月第3水曜日更新です。お楽しみに!

最果タヒ

さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。最新詩集『さっきまでは薔薇だったぼく』が発売中です。詩の展示を2023年2月に大阪で開催予定。

http://tahi.jp/

イラストレーション by カワイ ハルナ 
Instagram:@haruna_kawai

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。