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高木完『ロックとロールのあいだには、、、』

第12回の8: 小劇団と東郷健とイッピーの空気を吸って、リザードの原型、エレクトリック・モスが誕生する

2023.01.25

Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ

自分は高校2年の時に東京ロッカーズとプラスチックスとハルヲフォンを見た。1978年。その時の余波が、いまだに自分の感性の基本となっている。

高校2年の頃のモモヨさんというと、、、

「高校は2年を2回ダブって辞めた。塚本(カツ)は学年は上なんだけど、高校は別。でもそこにヘンな奴がいるっていうんだ」

ロックそのものがマイノリティであった時代。知り合うきっかけは決まってヘンな奴がいるよ、あるいは変わったことをしている奴がいる、だった。

「朝から晩まで学校に出て来てても、講堂に引き籠もって訳のわからない音階をずーっと弾いている奴がいるっていうんだけど、それが塚本だった。俺はもう学校辞めていたから、なんとなく仲良くなった。俺たち2人にドラムのトメが加わって始めたのがエレクトリック・モス。俺がベースとボーカルで、その後トメが同じ高校の桃園(ギター)を連れてきたんだ」

ベースとボーカルというとポール・マッカートニーを思い浮かべそうだが、、、

「マーク・ボランをスージー・クアトロ化したようなイメージ」

とても分かりやすい喩えで、当時のモモヨ青年が目指した像を自ら語ってくれた。

「あとその頃、百人一首っていう劇団があって、それのバックも1人でやってた」

寺山修司や状況劇場に代表される東京の60年代とは、演劇文化の時代だったのだろうか。その辺りは自分にとっては遠すぎて、触れることすら叶わないが、自分が多感な時期に触れた人たちは、皆そこを通ってから僕の目の前に現れた。勝手な憶測かもしれないが、そのシアトリカルなノリはロックの中でも後にグラム・ロックや異装の連中に引き継がれ、ミュージカル『ヘアー』が持っていた精神性はヒッピー・カルチャーを根付かせ、長きにわたって入り交じりながら、今の時代にまで続いてきているのかもしれない。

「神楽坂にホールがあるんだよ、牛込公会堂って言ったかな。そこで俺は劇団の音楽をひとりでやるんだけど、ベース・アンプあるわ、ツインリバーブあるわでさ、エレキギターとベースを弾いた。エフェクターはリバーブぐらいしかなかったんだけど、あとはトレモロね。今はあんま使わないけど、あの頃トレモロ使えばシド・バレットって感じさ」

劇団側は、モモヨさんの前にオファーした人がいたらしい。

「最初その劇団は古井戸やっていたチャボ(仲井戸麗市)に頼んだらしいんだけど、断られて、俺に回って来た。72年ぐらいの話」

劇団の運営とかはどうなっていたのだろうか。

「劇団なんてとんでもないとこでさ、朝、連れてかれるんだよ。タイル貼りのバイトとかに。でも、当時そこで楽器をいろいろもらってさ、それでバンドやろうかな、ってなったんだ」

そのバンドが前述のエレクトリック・モスだ。そしてその結成のきっかけは、東郷健も関係したコンサートにまで遡る。

今でこそ、LGBTQ+といった言葉を通して一般の人々にも広く認知され始めている性的少数者だが、東郷健の存在は早かった。同性愛をカミングアウトした東郷健は、60年代より文筆などの活動を通してセクシャル・マイノリティや障害者への偏見や性差別の撤廃、性病やエイズ問題の解決などを一貫して主張。また1971年の参院選を皮切りに国政選挙や都知事選に幾度も立候補しては落選を繰り返したのだが、選挙活動の際のスローガンは反資本主義体制、反権力などが中心であったという。

「東郷健とは、その頃『ハレンチ学園』ってイベントがあってさ。全共闘ではないんだけどイッピーっていう、ジェリー・ルービンとかMC5といった流れに近い。いわゆる普通のヒッピー、ウェストコーストのダラダラしたのとは違う子供たちが集まってたイベントで、それはその頃、逗子の方に関東学院の寮があるんだけど、そこに泊まり込みでセミナーをやってて、パンタなんかが歌って、東郷健はゲイに関して話して、俺ももしかしたらそこで歌ったかもしれない。そこで知り合いになった」

イッピー(Yippie)とはYouth International Partyの頭文字をHippieになぞらえた造語であり、アビー・ホフマンとジェリー・ルービンとポール・クラスナーが考えた名称。彼らをスポークスマンとするカウンターカルチャー運動である。

「ある時『ハレンチ学園』が主催した豊島公会堂のイベンントがあって、俺とカッチンはアコースティックで出た。(裸の)ラリーズが一緒だったんだけど、俺が知っていたラリーズってのは、水谷さんがいて、もうひとりは茶筒みたいなの叩いている奴がいて、それを京大西部講堂でやってるの見てたから安心しきっていたわけ。そしたらちゃんとしたエレクトリック・バンドになっていてさ、俺たちはアコースティックで、あの頃まだPAなんてちゃんとしてなかったから、全然音が前に出ないんだよ。ボーカル・アンプだからパワーも無いし。『負けた』ってなって、それがきっかけでエレクトリックになったんだ」

そしてその頃から、メンバーにワカが加わる。

「その後、東郷健が主催のイベントが朝日生命ホールであってエレクトリック・モスで出て、ワカがそれを見て、自ら応募して来た。『ベースが目立てるバンドがある』ってんで。その時はまだ俺はベースやる気があって、逆にボーカル探してて。京都にその頃のマネージャーと2人で探しに行ったんだけど、見つからなくて。帰って来たらその応募してきた若林がちゃっかり新しいベースで入ってた。それで5人組になる。それからは俺はボーカルになる」

このエレクトリック・モスが紅蜥蜴になり、リザードになるのだ。

「化粧はしてたよ。きっかけはマーク・ボランだね、俺が演劇出身だから、白塗りしても違和感なかったんだよ。とにかくヒッピーが嫌だったんだ。ラブ&ピースとかみんな平等だぜ、とか言いながら、自分たちだけ儲けてバーッと去っていく。あの感じがすげえアタマきてたんだよ。ある種の鬼っ子だったんだよ、俺たちは」

エレクトリックになってから、活動はより活発になっていく。

「学祭があるからね、あのころは法政なんかも中庭でやってたよ。オリジナルで『黒い人形使い』とかもうあったな」

モモヨさんの書く詩はロックの中では異彩を放つ。

「演劇やっていたから、現代詩とか興味持つじゃん。鈴木志郎康さんとか覚えてる。とにかくバンドの動員数は少なかったよね。テクニックもないのに今注目のバンドって言われてさ。日本テレビにも2回出たよ。『スター爆弾演説会』てのにも1人で出て。今の親父に分かってもらえない感覚ってことでね」

その後、世間を騒がせた事件は起きる。

昭和48年5月23日。
日本テレビの『お昼のワイドショー』。
サブタイトルは
「新しき性の倫理を探る『良家の子女が支える暴力ロックバンドの金とSEX!』」というもの。
紅蜥蜴は台本を無視して『黒い人形使い』を延々演奏し、番組終了後には局に苦情の電話が殺到したという。

「石坂(敬一)さんはその番組を見て連絡してきた」

『鈴木志郎康詩集』(現代詩文庫・思潮社/68年)の表紙。筆者私物を撮影

(つづく)


次回は2月22日、毎月第4水曜日更新です。お楽しみに!

高木完

たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。初の単行本『東京 in the Flesh』が発売中。

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。