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IN THE CITY DIGITAL

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』

連載 第七回:不幸÷他人事

2022.04.20

Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ

 どうしてそんなことになったのか、とか、他に方法はなかったのか、とか、不幸そのものの物語に触れて、そういうことばかり考えてしまうとき、人の苦しみや悲しみは日常を燃やしたり沈めたりするもので、それらこそが「日常」であるとは捉えられなくなっている、と感じる。この世にある不幸と呼ばれるものは、どれも物語になるためにあるわけではなく、それらを俯瞰して見ることができる第三者のためにある涙など一滴もないのだけれど、それでも、苦しいことが自然で日常なのだと考えるのはこわくて、現実逃避として私はつい「どうにかできないか」と、誰かの不幸の前で「他人として」考えてしまう。解決するにはこうすべきだ、ああした方が良かったのではないか、と頭を動かす時、本当は不幸そのものの苦しさからは目を逸らしていて、痛みが解決し得ないものであるのかもしれない、永遠に終わらないのかもしれないという、その痛みの最も奥にある不安から、当事者でもないのに目を背けようとしてる、と感じるのだ。
 この居心地の悪さは、現実のニュースを見ているとき、誰かの相談を聞いているとき、私の胸の中に現れるもの。安全が担保された場所で「こうしたらいいのでは」とふいに考える自分のグロさと、そうやって考え出さないと想像力を現実の問題に向けることもできないというみっともなさに泣きたくなるのだった。救いたい、と思うことが醜悪だと言うわけではないが、救いたい、としか言えない時、私は自分をちっぽけで、弱虫で、怖がりで、愚かだと感じる。救いたいという感情は、救えてやっと実を結ぶのだと思う。それまでは、救いたいと思う限りは、救おうとして対策を考え続ける限りは、相手の現実の本当の部分、「逃れることができない」「解決もしようがない」「永遠に続くかもしれない」そんな恐ろしい痛みの要から目を背けている。それが悪いわけではなく、他者だからこそ希望を捨てずにいられるのだ、とも言えるし、それによって当事者に未来を見てと伝えられる、勇気を持つきっかけになることだってあるだろう。それでも、そうなったとしたらそれは前を見続けた当事者がすごいのであって、決して第三者が現実を見ないことが絶対的な最善とはいえないと思う。当事者に可能性を信じさせるとしたらそれは素晴らしいけれど、そうではなく、そのまっすぐさについていけず、当事者が置き去りにされることもきっと多々あるはずなんだ。
 現実は物語とは違う、と思う、不幸があればそれが救われたり、ましになったりするのが「ストーリー」であるなら、そんな決まり事が通じないのが現実だ。救いのためにある不幸などひとつもなく、手遅れで、リセットなんて不可能な、そんな不幸はあちこちで起きて、それに物語を見る調子で「こうしたらよかったのに」と思うことの不気味さ、救いがあり得ると信じ切った目で眺めることの残酷さ。その恐ろしさを、当事者以外が本当の意味で理解できるだろうか、と思うのです。

 そんないたたまれなさと罪悪感を、現実ではなく物語で体験することになるとは思わなかった。『タコピーの原罪』の話。宇宙人タコピーは子供たちを助けたい、幸せにしたいと思いながら、あまりにも人の気持ちや常識がわかっておらず、「今言うべきじゃないだろ」とか「もう少しやりようがあるだろ」と言いたくなるようなことを、追い詰められた子供達に何度もしでかすが、結局そんなつっこみを作品の外から言ってしまえるグロテスクな私を追い越して、タコピーは子供たちに届く存在になっていった。物語の中にある波乱や不幸は乗り越えたり救うためにあるものであると当たり前に信じてしまうし、だからこそ現実でも、物語の主人公になったつもりで、他人の覆りようがない不幸に土足で「解決」や「救い」をもたらそうとしてしまう。タコピーは物語だ、でも物語の中でそんな現実の「土足」を描いてしまっている。救われるためにあるはずの不幸が、救われていかず、救おうとする意思がどんどん空ぶっていく。そしてそれを読みながら、救おうとして失敗するタコピーに苛立ち、子供たちを追い詰める大人に腹を立てて、私は自分が一番「理解」し、答えを差し出せると思いながら、だんだんと「そんなことはない」という現実を思い知るのだった。外側から手を差し出す必要もない立場で、ひたすら心配し、失敗に苛立ち、対策を考える間は、私は多分ずっと、誰のことだって救える気がする。タコピーのように実際に失敗して打ちのめされることもない。でも、実際は何もできていないのだ。タコピーが子供たちにとって特別な存在になることは、読んでいる間私の中に渦巻いていた「冷静で正しい助言」の、大敗北でもあった。そしてそれこそが、私はとても気持ちよかった。

 タコピーが子供たちに未来を与えられたのは本当によかった。でも彼らを救ったのはファンタジーの力であり、どこまでもフィクションならではだった。その魔法のような突破を目撃することができたからこそ、魔法のない現実では、彼らに与えられるべきなのは「答え」「解決」ではないと、そんなものはほとんどが不可能で、むしろ救いようがないものがほとんどなんだと心に刻みつけられる。それは知りたくなかった現実なんかではなく、むしろ早く徹底的に思い知らせてほしい現実であったように思う。居心地はずっと悪かったのだ、それでも「救いたがる」という方法しかない気がして、しがみついていた。自分もまた無力な人間であることを受け入れてから、他者の苦しみに向き合うのは、ずっと勇気がいるから。それでも、それしかないと早く気づきたかったんだ。
 この作品のテーマである、「一方的に救おうとするのではなく、ちゃんと話をするべきだ」というメッセージよりも、もしかしたら「救おう」とする読者の視点や俯瞰が一切勝利を得られなかったことにこそ、この物語の主軸があるのかもしれません。話すべきだ、というのは多分完璧ではない答えであり、話すという時間をしずかちゃんとまりなちゃんにもたらすのはかなり困難で、それを可能にしたのは結局はファンタジーの力だった。それでも、「救おうとする」より上位の何かがあるということを真正面から描き、作品の外でも中でも、そうした救いたがりの意思に一切成果を与えなかったこの作品は、個人の痛みに対する他者の無力さについてどこまでもリアルだったし、それでもこの物語は「物語」で「完結」するからこそ、先の見えなさに、先の見えないままでカタルシスをもたらしている。ファンタジーなんてない現実を生きる上での答えではなく、勇気を少し与えてくれるんだ。

 物語で、自分ではない他人の人生を体験すること。それのなにが特別って、きっと「解決できない」「答えがない」そんな曖昧な問題や苦しみに、雑な答えや、端数切り捨ての解決をもたらすのではなく、曖昧さを曖昧なまま抱えて、それでも生き抜くことにひとつのカタルシスをもたらすことができるから。絶対的な答えがない、というのは生きる上であまりにも恐ろしくて受け入れ難いことだけれど、人生にはそんなことが多すぎる。死ぬまで痛みの全てが続いていくような恐ろしさの中で、物語は一度、「続いていくままで終わってくれる」。ファンタジーや、演出や表現の力で、決着を簡単には得られない苦しみや悲しみや人生そのものに、生きたままカタルシスを感じさせてくれる。それは「終わらない」ことへの不安を、少し、ましにしてくれるものだ。「終わらない」ことこそが、「生きる」ということ、強くて光を放つ選択なのだと、物語は見せてくれるんだ。タコピーも、誰かにとってはきっとそんな作品になるのだろうと思います。



・『タコピーの原罪』(タイザン5・著)少年ジャンプ+公式
https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496638370192


次回は5月18日、毎月第3水曜日更新です。お楽しみに!

最果タヒ

さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。最新詩集『さっきまでは薔薇だったぼく』が4月発売予定です。

http://tahi.jp/

イラストレーション by カワイ ハルナ 
Instagram:@haruna_kawai

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。