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最果タヒ『MANGA ÷ POEM』

連載 第八回:殺人÷罪悪感

2022.05.18

Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ

 人を殺したくない、と私は思う。それでも、自分が殺されそうになったらどうか、近しいものが殺されそうになったらどうか、人があちこちで殺し合う場に放り込まれたらどうか、守りたい人がそこにいたらどうか、ということを想像すると、「殺したくない」は何も選んでいない、とも思う。殺すか殺さないかだけの選択肢であることなんてごく稀で、「救うか見捨てるか」「死ぬか生きるか」「略奪されるか生き残るか」そういう形で「殺すか殺さないか」を選ばされることこそが人には起こり得て、けれど、人はその瞬間に出くわすまで、そうは発想ができないのだ。「殺したくない」と当たり前に願っていた何も知らない過去の自分が、「人殺しなんて異常者のすることだ」と思っていた過去の自分が、「人殺しは地獄に落ちる」と言い切っていた過去の自分が、きっと、追い詰められ殺すことを選んだ自分を誰よりも厳しく責めるのだろう。もしかしたら、それが恐ろしくて自分や他者を守ることを諦めたりするのかもしれないし、その決断が「正しさ」を選択したように自分には見えてしまうのかもしれない。けれどそれは冷静な、それぞれの未来を想像して、正義と命を天秤にかけて考えて、選択した結論ではなくて、あくまで過去の自分が最初から選択肢を奪った結果であると思う。「生きる」を選んだ自分の、「殺した」という選択を責める刃として、過去の何も知らない自分は現れる。その姿は「罪悪感」という言葉で呼ばれることもあるのだろう。

 戦場で生きるために人を殺した兵士たちの、戦後の物語として、ゴールデンカムイを読んでいた。
 冒頭で私は、殺したくない、と書いたけれど、戦地において「殺したくない」「殺すしかない」と判断する時間はきっとないだろうと思う。それこそ「生きたい」と思っていなければ咄嗟に動くことはできないのかもしれない。「殺されるぐらいなら躊躇なく殺す」という日露戦争帰りの主人公・杉元の言葉があるけど、殺したいわけではないのだ、そこにある判断は「死にたくない」「殺されたくない」という意志であり、ただただ「生きたい」だけなのだろう。そして、「生きたい」と、多くの人を殺さなくてはならない状況で思いつづけることもまた簡単ではないのかもしれない。敵よりも自分が生きなければならないと信じ続けるには、何か大義や忠義を持っていたり、野心や他者への恨み、もしくは自分か、自分を必要とする誰かを心から愛することが必要なのではないかと感じる。それらを持たないまま、自分に価値があると思えないまま、即座に理由もなく他者を殺すことを選択することはできない。(だから、自分の価値を確かめる代わりに、他者の全てに価値がないと思い込んで、戦う人もいるのだろう。)生きたい、と当たり前に願うために必要なこと。それはたとえば、自分は祝福されて生まれてきたのだと心から信じること。心酔する上司から必要とされること。待ってくれる誰かのために必ず帰ろうとすること。どこかで今も自分が必要とされていると信じること。きっといろいろあるけれど、それらの多くは一つ目の「自分は祝福されて生まれてきたのだ」という確信の代わりのように私には見える。生き抜こうとすればするほど、自分は愛されて生まれてきたのか、自分は誰かにとって人を殺そうが罪を犯そうが、揺らぐことのない「大切な存在」であるのか、生きるに値するのか、という問いが浮かび、確信を持てない人間は、その代用を求めたり、自分に足りない「愛」そのものを否定しようとしたりする。誰にも愛されていないのではないかという不安と向き合いながら、人を殺し生き残った彼らは、罪の意識だけでなく、「愛されてこなかったのでは?」というあぶり出してしまった疑問にも苦しめられていくんだ。「愛されてこなかった」なら愛されたいし、けれど、人を殺した自分が今後「愛される」とは思えない。戦地に心を残したまま、人を殺し続け、戦地で自分を納得させるために言い聞かせてきた「殺す道理」にしがみつくしかない人もいる。そこで見出した仲間や上司への愛情を守るために、戦地にあえて身を置き続ける人もいる。人を殺したことがなかった昔の自分に戻りたい、というような描写はゴールデンカムイの中に何度か出てくるけれど、そう願えることも、もしかしたらとても尊いことなのかもしれません。
 杉元はアイヌの少女アシリパについて、「アシリパさんを見てると俺のなかにも子供の頃に確かにあったようなきれいな部分がまだ残っているんじゃないかって思えて救われる」と語っている。だから、私は杉元は一度は自分が愛されていると信じられた子供だったのではないか、と思う。彼はとても恵まれている人。それは、彼が家族からもらった宝物であろうと感じていた。(尾形にはそれがなかった。戻りたい自分というものがなくて、愛情への飢えの底が抜けてしまっていた。杉元には昔に戻れば愛し愛される世界が戻ってくるという希望があったけれど、尾形にはどうやれば愛情が得られるのかが全くわからなくて、それは同時に、殺してしまった「自分を愛してくれる人」の存在をその人がいなくなってから際立たせるものだった。)

「悪いことをするやつは…自分を見られるのが怖い」ゴールデンカムイに不意に登場したこの言葉は、罪悪感そのものを捉えた言葉だと思う。過去の罪に対して「やらなければよかった」「やるべきではなかった」という後悔は、自分の中で正義のような振る舞いをしたり、道徳のような見栄えをしていたとしても、根っこにあるのはどこまでも「罪悪感」で、罪を犯す前に持っていた無垢な正義感が今の自分を否定し、それによって自分をより愛せなくなっていくようなこと。罰を下すように繰り返される自己嫌悪だ。自分が愛せなくて、それでも愛されたくて、せめて、とその罪の意識に、自分を責め続ける過去の自分に、頭を下げ続けている。けれどそれは罪そのものへの悔いというより、「自分を愛せなくなったこと」への悔いであり、それは贖罪につながるのだろうかとは思うけれど、それでも私はそうしたあり方を愚かだとは言いたくない。自分を愛せなくなったからこそ、罪そのものへ頭を下げ続け、そうやって自分への「愛せなさ」を罪への意識から受け入れ続ける限りは、他者からの愛情をまともに受け止めることはできないし、愛に見合わない自分として暗くて出口の見えない地獄のような人生を生きていくしかなくなるのだろう。

「こんな暗いところで隠れて暮らして 悪さをするため外に出るのは夜になってから これではいつまでたってもお前の人生は闇から抜け出せない」(アシリパ)

 罪の意識がない人間もこの作品には多く登場する。そして一方で、人を殺した過去にうなされるはずの人が、うなされずに殺し続ける姿もある。戦争によって殺人に対する意識が麻痺してしまった人がゴールデンカムイにはよく現れて、彼らはさまざまな理由でそれを乗り越えようとしている。昔の自分に戻ろうとしたり、純粋な人を守ろうとしたり、忠義を貫こうとしたり。そうやって、自分の罪悪感に出会うのだ。「自分を見られるのが怖い」というのは、自分が、自分を愛せないからこその怖さだと思う。他人が自分に何を見るのか、そこに自信が持てず、愛される価値ももちろんないと思い込んでいる。誰かに愛されることそのものが恐ろしくなる、ということなのかもしれません。
 けれど愛してくれた人が、自分を罰するためだけにいる幻なわけがない。「清さ」を示すための象徴であるわけもない。愛してくれた人もまた生身の人間で、生身の人間だからこそ、そこから生まれる愛は重大なのだと思います。純粋無垢な、罪などと無縁な人間が愛してくれたから救われる、とか、罪が許される、なんて図式はあり得なくて、互いに、人は罪を犯す可能性を抱き、その中でともに生きている。たとえ相手が罪を犯したとしても、たとえ純粋でなくなったとしても、一人の人が自分を愛してくれたときの温かさは変わらない。自分がその愛情を確かに感じ取った事実は変わらない。それこそが、自分自身の罪の意識に届くものだ。どんな過去を持つ人間にも、生きる限りは過去だけでなく、未来があり続ける。生きる限り、自分の体はあたたかく、誰かの手を温めることができ、誰かの心を愛することができる。それに、自分と同じように間違えることのある生身の人間が、罪を犯した自分を愛してくれることで気付かされる。そんな人を自分も愛することで気付かされる。それは罪を許すことじゃない、罪悪感を忘れることじゃない。ただそれは、その人への罪悪感と共にある人生に射す光なのだと思います。

 罪悪感の象徴として見えていた過去の「純粋な自分」は、杉元の中でアシリパに姿を変え、そしてそのアシリパが罪を犯すこととなった。けれど彼は絶望をしなかった。彼にとってもはや、罪悪感は「失われたきれいな自分」への後悔ではなく、他者の命への純粋な贖罪に形を変えていた。人を殺し、手が汚れた自分を憐れむことなく、自分を愛せなくなったから悔いる、のではなく、死なせた人への「罪」だけを背負うことができた杉元の目は澄んでいた。自分に価値があるのか、生きるべき存在なのか、という問いを必要としない彼は、完全ではない人のことも愛することができる。それはアシリパのこと、そして、自分のこと。罪を犯したことのない幼い自分に戻りたい、と願うのではなく、罪を背負った人間として、彼は自分にまだ未来があることに気づいた。「生きる」ことを許したのだろうと思います。



・『ゴールデンカムイ』(野田サトル・著)週刊ヤングジャンプサイト
https://youngjump.jp/goldenkamuy/


次回は6月15日、毎月第3水曜日更新です。お楽しみに!

最果タヒ

さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。最新詩集『さっきまでは薔薇だったぼく』が発売中です。

http://tahi.jp/

イラストレーション by カワイ ハルナ 
Instagram:@haruna_kawai

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。