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Akio Iida

とりあえずやってみる精神で湖畔へ移住。アートキュレーター飯田昭雄の今昔。

2021.11.15

Photo:Shin Hamada / Text:Keisuke Kimura

かっこいい先輩というのは、いつも一歩も二歩も先を行き、新しい気づきを与えてくれる。キュレーターであり裏原文化の生き字引、飯田昭雄さんもそのひとり。80年代後半のエロ本の編集からはじまり、その後どっぷりと裏原の世界に身を置きNIGO®やKAWSと親交を深め、Wieden+Kennedy Tokyoで最高の広告を作り、いまは世界最大級の建築事務所で働いている。そうして今年の8月に長野へ移住。10月某日に訪れた飯田さんの新たな拠点で、これまでの半生と一歩二歩先の話、そして人生のヒントを聞いた。It's a New Beginning。

感動にお金はいらない。ただ、湖畔を眺めるだけでいい。

長野へ移住されたと聞いたとき、驚きました。飯田さんといえば東京のど真ん中の人だったので。

飯田

高校を卒業してから上京して、かれこれ35年くらい住んだのかな。移住に関してはやっぱりコロナが大きかったよ。去年の春先なんかは、自分が移住するなんて想像してなかったもん。

コロナ以外で、移住を決心した理由はありますか?

飯田

東京の生活に、刺激を感じなくなってたところはあるかもしれない。コロナになると余計人にも会わないし、外出も外食もしないじゃない。あと、こっちに来て思うのは、東京は「感動したい」ってなったら、駐車場を探したり、予約をしたり、高いお金を出さないと感動を味わえないよね。でも、ここだと朝起きて、家のデッキから湖の景色を眺めるだけで感動できる。心が喜ぶというのかな。今日の朝日とかも最高だったんだよ。

奥様も一緒に移住されたんですよね。

飯田

そうそう。ぼくも妻もアメリカに本社がある会社に勤めていて、フルリモートの状態になってね。だったら東京にいなくてもいいよねって話になり、自分たちがここだって思える場所で仕事してみようよってことになってさ。そこからいろんなところでワーケーションを試してみたら、意外といい感じに仕事ができてさ。それが最初の入り口かな。

なぜ、長野の白馬、それも湖畔だったんですか?

飯田

ふと奥さんから“湖”ってキーワードが出てきて。あと、ぼくはスノーボードが大好きで、20年以上白馬に通ってたの。そんな縁もあって、試しに夏の白馬に来てみたら、とにかく気持ち良くて。それと、この湖(青木湖)の近くにお世話になった人が住んでいたからお邪魔したんだけど、家の裏が芝生で、その芝生が湖に直結しているわけ。それがもうカルチャーショックで。こんな生活あるんだなぁって。

そんなわけで、ぼくらもここをベンチマークして、物件を探しをはじめて何度目かの白馬滞在の時に「物件出たよー!」って連絡がきたの。別にお金があったわけじゃないけど、なんとかなるでしょ!と(笑)。そこからフルリノベーションして、今年の8月に完全移住しました。

いまも東京には行かれるんですよね?

飯田

行ってるよ。東京でもオフラインのミーティングがあるからね。でも、いまのところ不便は感じていないかな。それと、東京にいたときって、みんな近くにいるから、1、2年会わない人ってたくさんいるけど、長野に移住してから東京へ行くと、普段会わない人でさえも会ってくれるんだよね。ミーティングの濃度も濃いし。いいことばっかりです。

他にも、移住で感じる変化があれば教えてください。

飯田

たくさんあるけどなー……あっ、そうだ! 東京にいるときは玄米食べたり食材もオーガニックにしたり気を使っていたけど、こっちにいると、そういうことが全然気にならなくなった。たぶん、食生活で全体のバランスをとってたのかなって思う。エクササイズも通ってたけど、いまは庭の草をむしったり、薪を割ってりゃいいからね。この2ヶ月で7キロくらい痩せて、腹筋も割れ始めてるくらい。

エロでやべーことやる。

それでは早速、飯田さんの経歴を伺いたいのですが、大学卒業後にまず編集者になられたと。

飯田

最初は「白夜書房」の子会社「コアマガジン」でエロ本を作ってました(*ちなみにその社名の名付け親)。それが社会人デビュー(笑)。あの時代のエロって、本当にサブカルだったの。みうらじゅんであったり、いまの文芸で活躍している人たちはエロで鍛えられたっていうかさ。集まっている編集者もおもしろい人ばかりだったのよ。だからぼくもそっちの世界に進んだんだよね。ちなみに『さらば雑司ヶ谷』『タモリ論』とか書いてる樋口毅宏は、大学卒業後にうちの編集部に新人で入ってきたんだよ。

それが80年代の後半くらいですか?

飯田

そうだね。その頃、藤原ヒロシやUNDERCOVERのジョニオ、NIGO®なんかが裏原の華やかな世界を作っていたんだけど、一方の自分は“ど”アンダーグラウンド。「原宿のほうではチャラチャラしたやつがやってんな」っていう、中指を立ててやってましたよ(笑)。

でも、のちに彼らとも親交を持つわけですよね。

飯田

そうなんだけど、ぼくは「エロでやべーことやる」って思ってたの。でも、時代的にエロの規制が厳しくなってきて。そこで元々アメリカのカルチャーが好きだったこともあって、『アメイジングキャラクターズ』っていう雑誌を作ったんです。これがぼくのデビュー作。当時としては画期的だったんだよね。おもちゃ雑誌といえば『ホビージャパン』とか、ガンダムとかそっち系だったんだけどさ。

これを、ほぼひとりで作ったと伺いました。相当骨が折れそうな……。

飯田

当時はデジタルじゃなくて完全にアナログだったからね。写真も全部ポジだし(笑)。原稿もPCなんてないから、原稿用紙に書いてさ。もちろん原稿は全部自分。アメリカの取材も全部ひとり(笑)。春くらいにはじまった企画で、半年くらいほとんど家に帰らずやってたんだけど「終わったー」って会社出たら、季節が2つくらい進んでた(笑)。

この頃から徐々に裏原と繋がっていったわけですか?

飯田

そうだね。NIGO®もだし、ヒカルくん(BOUNTY HUNTERデザイナー)とかスケシン(SK8THING)とかね。おもちゃ入口で、ファッション的な人と仲良くなるうちに、そっち方面の仕事をするようになっていったの。そしてフリーの編集になって、アーティストの繋がりができてきたときに、雑誌の限界を感じはじめたんだよね。そこから3Dの世界に移っていって。

才能ある無名アーティストをメジャーに押し上げる。

飯田さんといえば、A BATHING APE®が手がけていた「BAPE® GALLERY」でアートバイヤーもされていましたよね。

飯田

その前に、2001年に「渋谷PARCO」でKAWSの展覧会をキュレーションしたんだけど、タイトルが「TOKYO FIRST」。今年の7月にKAWSが六本木でやったのも同じタイトル。実は今回のKAWSのエキシビションは、原点回帰的な意味を込めてたんだよね。

いま、アート市場が活況ですけど、どう見てますか?

飯田

すごいよね。やたら売れてる。この間のKAWSの展示も、先の尖った革靴を履いたITマンみたいな人がたくさんいたもん。昔の仲間との同窓会みたいになるかなと思ったけど、そんな人たちばっかりで驚きました。誰もストリートを知らないしね。

才能ある人は、もっと日本のアートを引っ張ってってもらいたいと思う。売れてる売れてないじゃなくてさ。それとギャラリー側がお金で見るか、作品で見るかみたいなところもあるけど、いまはそういう市場を形成するための過渡期なんじゃないかな。村上(隆)さんとかが日本のアート市場を見ていないのも、まだまだ成熟してないからだと思う。

で、話を戻すけど、NIGO®と「BAPE® GALLERY」ってのを作って、そうこうしてたら原宿との距離がもっと縮まってきてさ。FUTURAとかSTASHとも関わったし、同時に編集者もやってたから『relax』でサブカルやストリートの特集をやらせてもらってて。

その時期は編集もやって「BAPE® GALLERY」でアートバイヤーもして、かなりのマルチタスクだったわけですね。

飯田

それと当時、中目黒に「大図実験」っていう、ストリートアーティストのためのギャラリー兼スタジオがあったのね。カザマナオミっていう、もともとシェパード・フェアリー(OBEY)と一緒に、サンディエゴとかでpastingやってたアーティストが作った場所で。そこがとにかくヤバい奴らの溜まり場でさ。ライターからスケーター、ペインターとか、NYから戻ったばかりのMADSAKIもいたね。そこにぼくも出入りしてたんだけど、すごい才能の宝庫だったの。でも、なかなか上のステージに行けない。一方でぼくは「BAPE® GALLERY」でメジャーどこをやってたわけ。そのとき、こういう子たちこそが世間に出るべきと思ってさ。

そこから、NIKEのJUST DO ITを生み出した広告代理店「Wieden+Kennedy」に繋がっていくと。

飯田

JOHN.C.JAYっていう、当時「Wieden+Kennedy」のエグゼクティブクリエイティブディレクターが「BAPE® GALLERY」に来てくれてさ。「今度うちでアートバイヤーって部署をつくるんだけど、興味ある?」って。ちょうど、当時のNIKEのCMがめちゃくちゃイケたから、ここで「大図実験」に来てたアーティストを起用したら彼らにもチャンスがあるかなと思ってね。広告の背景も知識もまったくなかったけど、行きます!って感じで。

ちょうど、NIKEがカルチャーに投資をしているときだから、広告にどんどんアンダーグラウンドのアーティストを起用してったんだよね。そこからやっと、自分が限界を感じてたギャラリーの世界が、ぶわ〜っと広がってったっていうかね。

それはそれは伝説的な会社ですが、「Wieden+Kennedy」は何がおもしろかったんですか?

飯田

あえて有名どころを使わないってとこ。まったく無名だけど、才能のある子を使って、そういう人たちをジャンプアップさせるのが「ワイデン」のクリエイティブの考え方だったの。だから、そことぼくのネットワークがピッタリはまったっていうかね。いい時代に広告に携われてたと思うよ。

あと思ったのが、グラフィティライターのコミュニティって、なかなか外部の人を受け付けないと思うんですが、飯田さんはすごく仲良いイメージがあります。イベントなんかも、よく一緒にやられてますよね。

飯田

ライターにとってみたら、広告代理店の奴っていちばん標的にする人物だよね(笑)。なんだけど、水戸美術館で「X-COLOR」っていう国内初の美術間での本格的グラフィティー展が開催されたのが大きなきっかけ。美術館内だけでなく街全体にミューラルを描くっていう前代未聞のプロジェクトだったの。『KAZE MAGAZINE』のKRESSがキュレーター兼プロデューサー的な立ち位置で現役ライターをたくさん集めて。普段、顔出ししないような奴らが40組くらい集まったんだけど、「ワイデン」がそのプロジェクトをサポートしてたからそこに通ううちに結構仲良くなってさ。カメラマンのグレート・ザ!歌舞伎町さんとずっと張り付いて一緒に寝泊りしながら取材して、ライターの子たちも「なんだこのおっさんたち」って思ってたと思うよ(笑)。そこからかな、少しづつ広告の仕事でも参加してもらえるような関係性ができたのは。

これまでの経験が点から線、そして円に。

「Wieden+Kennedy」も、その後、辞められるわけですよね。

飯田

「ワイデン」には2005年から2011年末までいました。で、2011年に大震災が起きたじゃない?ぼく、青森の八戸出身なんだけど、実家とも連絡取れなくなっちゃって。当時のツイッターって便所の落書きみたいなことしか書かれていないメディアだったけど、藁にもすがる気持ちで実家の住所を書いて呼びかけたら、いろんな情報がきて、最終的に隣の町内の人から連絡きたのね。そのとき、デジタルやべーなって思ったわけ。それまでアナログな人間だったけど、デジタルの強さをまざまざと感じて。

東日本大震災が、飯田さんを変える大きな転機だったと。

飯田

うん、すごい大きかったです。人間なんか、いつでもちょっとしたことで死んじゃうんだなって思ったよね。でも、後悔はしたくないから、とりあえずやってみる精神が大事だなって。自分も悩んじゃうタイプだけど、それより先に、間違いか正しいかは置いといて、とりあえず動く。JUST DO ITってすごいコピーだよね。

実際に、すぐさま現地にも足を運ばれて。

飯田

本当にひどい状況だったから、友人と救援物資を運ぼうと。先陣を切ってた友達の情報で、食料は足りてるけど、子供たちの娯楽がないって聞かされてさ。幸いにもエンタメに関わっていたから、知人に電話して余ってるiPodを集めたり、映画会社の友達にDVDをもらったり、奥さんが「ディズニー」に勤めているからぬいぐるみを集めてもらったりね。で、石巻が特にひどいってことで、そこのボランティアセンターに行ったら、怪訝な顔されてさ。ぼくもそのころ、髪がド金髪だったから。だけど、ぼくらが持ってたおもちゃを見て、子供たちが嬉しい顔してワァーっと寄ってきてくれて。そこで初めて、自分たちも何か助けになれたかなと思ったんだよね。これまでやってきたことも、少しは意味があったんだなと。

そういった社会に貢献したっていう実感は、なかなか普段、感じづらいところではありますよね。

飯田

本当にそう思う。寄ってきてくれたときは、本当にうれしかったよ。それから何度も通っているうちに、地元の人が集まる会に呼ばれたの。震災からまだ2ヶ月くらいだったかな。でも、その時点でもう「この町どうすっぺ?」って話をみんなでしてるわけよ。家族も家も流された人たちが、そんな話をしてるの。もし、自分が家とか家族とかなくしたら、町のことなんて考えてる余裕ないじゃない? だから「この人たちすげーな」って思ってさ。

そんな話を聞いてると、自分も掻き立てられて、「何やりたいですか?」って聞いたら「フリーペーパーを作りたい」って。「キターーー!」って思ったよね(笑)。編集やっていたから本は作れるし、広告もやっているから広告も集められる。それならいっそ、NPOを作っちゃえと思ってその場にいた仲間たちと作ったのが「ISHINOMAKI2.0」っていうNPO。

当時は広告会社でフィクションを作られてて、一気にリアルな世界に身を投じると。

飯田

だからこの頃は、広告に疑問があったんだよね。東北に対して、まったく貢献できてないじゃんって。だから動いたってのはあるかもしれない。で、最初は編集的な仕事だったけど、だんだんと「場」を作ることが多くなってきて。建物とかのハードも必要だけど、そのなかで何を生むか、何をするか。そんな活動はしたことなかったんだけど、東京と現地の仲間と手探りでJUST DO IT、とにかくやってみたわけです。

それから石巻に1年ほどいて、東京に戻ってきて電通に入社されるわけですね。

飯田

貯金もめちゃくちゃ崩してたから、そろそろ自分も復興しなきゃと思ったときに、ちょうど「電通レイザーフィッシュ(*現在は電通デジタルと合併)」っていう会社に呼ばれてね。最初、オフィスの設計をリニューアルしたいって言われて任せられたんだけど、そこで石巻で知り合った「石巻工房」を呼んで家具を入れてもらったり、これまでのネットワークを駆使して色々やりましたよ。そこで5、6年勤めたのかな。

ちょうどその終わり頃の2018年に、AMAZON FASHION WEEKで、NEIGHBORHOODのファッションショーの演出をやったのね。何をやったかっていうと、ATARI TEENAGERIOTっていうデジタルハードコアのバンドをドイツから呼んで、そのバンドマンがステージ上に積み上げたモニターをひたすら壊すっていう。他にも、でかいロボットアームにネイバーのフラッグを振ってもらって、ギンギンにレイザービーム飛ばしたり映像のプロジェクションやったりしたの。

実はそのとき、会場に奥さんも呼んでいて、当時の上司も来てくれてたの。その人が、実はぼくがいまいるアメリカの建築会社で働いている人でさ。

そこがいまに繋がっていくんですね。大震災のときも広告に対する疑問を持ってたとおっしゃっていましたが、このときもその思いがあったんでしょうか?

飯田

虚しさは感じていたかな。たくさんのお金と人を動かすのに、数週間くらいで終わっちゃうこともあるじゃない。しかも、自分の方がやたら偉そうになっちゃってたから、ぬるま湯だったの。

いま所属している会社は一流の設計事務所ですよね。

飯田

いま建築の世界はハード、いわゆる建物だけを作る世界ではなくなってきていて、中身のほうが大事。そこにきてこのコロナだから、働く場所の概念が大きく変わってきていて、どちらかというと建築を使う人がどうしたら働きやすかったり居心地がよかったり刺激を受けられるか、その為のコンセプトやプランがすごく大事な時期だよね。

広告の虚しさを解消する答えは建築だと思ったの。やっぱり建築って残るじゃない? あと、多摩美の専攻は建築だし。そこで、エロ本からはじまって、ギャラリーやって、広告やってコミュニティ作ってっていう今までの自分の動きが全部繋がったんだよね。「ここで全部できんじゃん!」って。そこからパッと建築のほうに仕事を転換しました。点と点が繋がって線になったと思ってたけど、実は円になってったっていうね。

チャンスとピンチはアクセル全開で。

振り返ると、飯田さんの人生は、いいタイミングで転機が訪れてますよね。

飯田

そうかもしれないね。けど、そのときをチャンスと捉えて、アクセル全開でいけるかどうかが大事なんだと思う。大震災のときも、ただ悲観的になるわけじゃなく、そこをチャンスと捉えて新しいことをはじめた人がいまも活躍してるんだよね。さっきも話した「石巻工房」なんて、工房町の千葉さんは元々寿司職人だからね。寿司職人兼DIYオタク。で、震災後にハーマンミラーが被災地に人を送り込むってなったんだけど、うちの団体が受け入れ先だったの。そのときに、その千葉さんに「ハーマンミラーの相手よろしく!」ってなったらすごく仲良くなっちゃって、一流家具メーカーのトップデザイナーから家具の作り方を伝授してもらってね。そこから「石巻工房」ができて、いまじゃ世界的にも人気あるメーカーにまで成長してるしね。

震災と、いまのコロナ禍は規模は違えど、たしかにピンチではありますよね。

飯田

その経験も、今回ぼくが移住に踏み切ったことに大きく影響しているかな。みんなある意味ピンチを感じたと思うけど、そういうときこそ動くべき、アクセルを踏むべきなんだと思う。そこで踏むか踏まないかで人生変わってくるでしょ。それと、深く考えていたら、こういうことってできないよね(笑)。

いま東京を離れる動きは活発ですよね。みんな自然の方へ意識が向き始めたというか。

飯田

人間本来が喜ぶものを、みんな気づきはじめてるんだと思う。そういう時代のムードは確実にあると思います。

長野ライフ、これからやりたいことってありますか??

飯田

実は近くに、とある廃墟があるんだけど、アングラーも来るしサイクリングで通過する人も来る。もしそのロケーションを使わせてもらえるなら、すげーいろいろできるなと。1階がちょっとしたカフェで、上がギャラリーとかレジデンスとかっていうのもいいよね。そうなったら、人が集まるんじゃないかなって。

いまはコミュニティ作りに重きを置いているんでしょうか?

飯田

別にそれだけってわけではないけど、ただ思うのが、コミュニティって作ろうと思って作れるものじゃない。いまの仕事で都市開発の会議なんかに出ると、コミュニティ、コミュニティってみんな言うけど、やっぱりコミュニティとして人を引き寄せる磁力を持つためには、何かしらの共通の目的を共有することが大事。だからまあ、なかなか難しいわけでさ。

今後できるであろう、長野のコミュニティも楽しみにしています。それにしても、本当に素敵なお家でした。

飯田

自分が20代とか30代の若い時に先輩の家に行ったら「やべーっす!」ってなってたけど、今度はぼくが、そういう先輩的な役回りなのかなと最近思うんだよね。それも、この場所にいる意味なのかなって。こうしてみんながここに来てくれて、それぞれいろんなことを持ち帰ってくれて、楽しいことに昇華してくれたらうれしいよね。

Creative Producer

飯田昭雄

いいだ・あきお。青森県八戸市出身。多摩美術大学建築学科を卒業後、「白夜書房」に入社。その後「BAPE® GALLERY」のキュレーターとして活躍し、2005年から2011年まで「ワイデン+ケネディ」でアートバイヤーを務める。東日本大震災後、一般社団法人「ISHINOMAKI2.0」を立ち上げ、2012年に電通レイザーフィッシュ(現電通デジタル)へ。2018年、現職である米国のデザイン設計事務所のクリエイティブプロデューサーに。

Instagram:@akiosky(https://www.instagram.com/akiosky/

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次の東京を創造していく表現者にスポットを当てたインタビューコンテンツ。