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高木完『ロックとロールのあいだには、、、』

第13回の2:地引雄一さんは、後のZELDA小嶋さちほ編集『ロッキン・ドール』でシーンを知る。そして紅蜥蜴と邂逅する

2023.05.24

Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ

「書いてある内容は過激なんだけど、文字が可愛い」
そう言いながら地引さんは丁寧に保存された当時のジン(まだその言葉は広まっていなかったが)を見せてくれた。

『ロッキング・オン』の読者投稿欄に掲載された『ロッキン・ドール』は後にZELDA を結成する小嶋さちほが発行していた日本のアンダーグラウンド・ロックの専門誌である。

小嶋さちほ編集『ロッキン・ドール』創刊号

文章は全て手書きだ。
誌名と同名の紅蜥蜴の曲が、この冊子の声明とも言える。

「あんたの声が聞きたい
わめいて わめいて
あんたの炎に触れたい
わめいて わめいて
扉を開いて 狂気の扉を
さあ見せてあげよう 俺たちの存在を

俺たちゃ イカれたロッキンドール
踊って 踊って
ニーチェ、サルトルくそくらえ
踊って 踊って
ドラマーはサディスト ギタリストはパラノイア
ベーシストはキジルシ そして俺は道化師
HEY!」
(ロッキンドール/紅蜥蜴)

その雑誌『ロッキン・ドール』には、リザードに変態し始めていた頃の紅蜥蜴を中心に、ラリーズ、村八分、そしてフリクションになる前の3/3が取り上げられている。当時、ほとんどのメディアが黙殺していたバンドとその界隈だ。NO NEW YORK周辺の記事もこの雑誌が本邦初だろう。
「チホ(小嶋さちほ)はまだ高校生だったと思う」

イモハウスは死ね、と当時のライブハウスを真っ向から否定するような文章も綴られている。
「ヴェルヴェット(・アンダーグラウンド)の『ヘロイン』を歌ったらダメだって言われたらしい」
と地引さんは説明してくれたが、当該する箇所を読んでみると、小嶋さちほはとにかく苛立っている。アンプが壊れていたり、店側が金のことばかりに執着していたり、そして何よりもバンドが昼の部にブッキングされたことも、この苛立ちに大きく関係していたのかもしれない。そして、こうした類の苛立ちから生まれた反動が、S-KEN STUDIOのオープンへとつながっていく原動力となったのは確かだろう。

当時の地引さんは、送られてきたこの雑誌によって、日本にもロックのアンダーグラウンド・シーンがあるということを初めて知る。
「その後に、これが来たんです」
見せてくれた1枚の葉書には、赤のサインペンの殴り書きで
『78  2/4(土)渋谷 屋根裏 Liveあり
昼の2:00から すぐこい!!紅蜥蜴』
と、記されている。

紅蜥蜴から送られてきたハガキ

「行ったら、昼の部だし、客もそんなに盛り上がるでもない感じ。パンクっぽい若者も何人かいて、後から知るんだけど、原宿の〈SMASH〉の連中だったらしい。モモヨも『お前らまな板の上の鯉みたいじゃないか。ただじっと見ているだけで』って客に文句言ったりしてた」

客席の雰囲気はともかく、それまでに見た日本のバンドとは全然違う何かを感じたことでスィッチが入った地引さん、
「ライブ終わった後に、機材の片付けをしていたモモヨに話しかけ、『ロッキン・ドール』でみた紅蜥蜴のEPの『デストロイヤー』と『白いドライブ』を買いたいと言ったら、『あんなの買うの』と言われつつ。写真も撮らせて欲しいと言ったら、次の日に池袋のヤマハでライブやるから撮りに来いって言われたんだ」

当時はあちこちで無料ライブがよく行われていた。ライブの対バンは、まだアレキサンダー・ラグタイム・バンドと名乗っていた頃のARBだったという。ドラマーのキースは、その後再結成リザードに参加している。
「モモヨたちとは、その時喫茶店でいろいろ話して。3/3が今ニューヨークに行っている、とか、ミスターカイトとミラーズ、スピードがジャンプロッカーズと名乗ってライブをやっているらしいとか。いろいろ」

地引さんにとっては、ファン的な立場というよりも、
「やっと見つけた、だね。パンクかどうかはわからないけど、日本的なパンクはここにあるんじゃないかなって思った」
「パンク(のレコード)を漁り始めた時に、日本にもこういうバンドがいるはずだし、こういうムーブメントがなきゃいけない、なければ作らなければいけない、とまで思っていたから」

日本でのパンクは、当初ファッションとしてキッズが感覚的にとらえた。これとは別に、ごく一部ではあったものの、年長の人に受け入れられた。この理由について地引さんは語る。
「学園紛争の世代で、70年代初頭に反体制、ヒッピー、アングラを体験している僕なんかにしてみれば、それがだんだん下火になっていって、燃え尽きてないという思い、不完全燃焼感があった。それは(遠藤)ミチロウも似てるんだと思うけど。僕と同世代で。そんな思いが、自分たちの手で、世の中を変えられるようなものを出したい、何かの形でやりたいって言う思いが、燻ってたんだと思う」

ともあれ、モモヨや小嶋さちほと友達になった地引さんは、彼らと一緒に〈屋根裏〉での『ブランク・ジェネレーション』の上映会を見に行く。
「映画上映の前にミラーズが出た。初めて見て、もうわけわからないんだけど、がむしゃらなエネルギーが伝わってきて、福生の〈チキンシャック〉にもジャンプロッカーズを見に行った」
その後『ロッキン・ドール』主催で78年4月15日に北区公会堂で『ロッキン・ドール・コンサート』というのが開かれることになる。この時、紅蜥蜴、ミラーズ、ミスター・カイト、フリクションが初めてジョイントすることになる。

しかし、客は全くと言っていいほど入ってなく、出演者の方が多いような状態だったという。
あまりの集客の悪さに落ち込んだ紅蜥蜴はその後これでダメなら解散しよう、ぐらいの気持ちで参加したパンタとの関西ツアーで多大なプロップスを得て、帰京。その自信と勢いがS-KENスタジオのオープニングにつながる。

多くの人の助力によって、S-KENスタジオは誕生した。
その最大の貢献者であると同時に、当時はS-KENバンドでベースも担当していた山浦正彦さんについて、地引さんはこう言う。
「山浦さんは当時、ワーナーの洋楽ディレクターでイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』の担当だったんだけれど、あれに西海岸的なヒッピー・カルチャーの最後の姿を感じて。パンクに新しい物を感じて。会社も出て、ニューヨークから帰ってきたS-KEN(田中さん)とスタジオを新しい拠点にしようとして始めたんだよ」

1978年5月28日。S-KENスタジオがオープン。
後に「東京ロッカーズ」と呼ばれるムーブメントは、こうして始まった。


(つづく)



次回は6月28日、毎月第4水曜日更新です。お楽しみに!

高木完

たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。初の単行本『東京 in the Flesh』が発売中。

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。