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最果タヒ『MANGA ÷ POEM』

連載 第二十一回:不老不死÷少年

2023.06.21

Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ

『ポーの一族』の「はるかな国の花や小鳥」に登場するエルゼリとは、どんな人だったのだろう。愛しあった人に捨てられ、それでも相手を恨むことなく、いつまでも思い出の中で愛し続け、微笑み続けていた人。たとえ共にいなくても、その人が別の女性を選んだとしても、今でも相手を愛することはできて、それだけで生きていけると彼女は言う。

「悲しみも憎しみもそれらの心は行き場がない わたし弱虫 そんな感情にはたえられない だからあの人を愛していたいの それだけで幸せでいられる」

 だからエルゼリは、愛した人がこの世界からいなくなった時、生きる気力を失ってしまう。いつまでも夢を見ているひと。愛するとは悲しみのことでも、憎しみのことでもあるような気もする。どんな孤独さえも幸福に満ちたものに変えるために愛情はあるのかもしれない。
 そんなエルゼリを「優しい人」だとエドガーは言った。

『ポーの一族』の美しさは、主人公のエドガーが子供の姿で不老不死となってしまったというところにある。子供の姿で時が止まってしまっているからこそ、ずっと同じ場所で生きることはとても困難で、正体を知らない人と長く時をともにすることができない。とてつもなく特別な人に自分と同じ不老不死になってもらい、ずっと同じ孤独の中で生きることが辛うじて望めることだろう。でもそれは、同じ孤独を持つ人間を増やす、ということで、自らの孤独を癒すものではないだろう。誰かに好意を持たれることや、誰かに好意を抱くことへの執着が、薄れ続けてしまう。その寂しさは「小鳥の巣」で肌に刺さるように感じて、それは学校という舞台が、むしろそうした「好意を持つこと持たれることへの執着」の巣窟みたいなところがあるから。好きでもない人や、大切でもない、そういう普通の「その辺にいる人」へのうっすらとした優しさや愛を失っていく感覚だ。どうしてそんな人を尊重したり親切にしたり思いやってやらなくちゃいけないのかわからない。他のエルゼリやエディスやリデルに対する彼らとは違って、「小鳥の巣」の彼らはずっと残酷で、そして周囲に愛されたがっていなかった。孤独であることは変わらないはずなのに孤独を癒す手立てとしてそこにいる人々に少しも期待をしていなくて、それは相手の人々に何一つ好意を抱いていないからではないかと思う。それはとても子供だ。大切ではない人のことも尊重する、なんてできないし、その人たちの大切なものを踏み荒らしてしまうこともある。彼らはここである意味ではとても「素直」で、この章があることが、エルゼリやリデルやエディスとの二人の態度の印象を大きく変えているようにも思う。

 不死身の孤独をテーマにした作品が昔好きでいくつも読んでいたが、ただ不死身であるならば、親しい人々がみな自分を置いて死んでいくことこそがそのキャラクターの孤独を作っていた。多くの人を見送ることの虚しさ、大切に紡いだ関係性や愛情が死によって消え去っていく寂しさ、そういったものが描かれていくはずだけれど、『ポーの一族』にあるのは、他者の死、友が去っていくことではなくて、自分が他者から去ること、友達にはなれないことの孤独。そして本当に大切な人を自分と同じ孤独に引き摺り込み「幸せにしてあげられない」と苦しむ孤独。

 他者に優しくすることができているエドガーやアランは、それこそエルゼリを思い出すのだ。いつかは離れる人、いつかは自分達よりずっと先に死んでしまう人。大切だが、ずっとそばにはいられなくて、自分の孤独の中に引き摺り込むこともせずに、見守っている。特に二人が育てた幼女・リデル。彼女に幸福な未来を与えたエドガーは、ある意味ではメリーベルにできなかったことを、自分が両親を殺してしまったその少女に全て注いだようにも思う。自分と同じ呪いにはかけずに、一人の少女を大人にし、そして解放すること。彼らにとってリデルがどんな存在なのかはほとんど描かれない(リデル目線の描き方をされているため)、リデルが自分たちを忘れてしまったとしても、彼らは忘れないだろう。ずっと一緒にいることはできなくて、「いつかは離れるつもりでいること」こそが幸せを祈ることである彼らにとって、その人が自分をどう思っているかなんてもはやほとんど関係なく、愛していればいるほど、自分たちがずっと愛せていたら、それでいいと思うのではないか。
 そして、エドガーの隣にアランがいたからこそ、リデルのことは手放せたし、孤独へと引き摺り込みたいとも思わずに済んだのかもしれない。

 エルゼリには昔の恋人しかいなかった。新しい出会いはすべて、彼女にとっては「世界」の断片であり、世界は彼女と昔の恋人を繋いでいる糸でしかない。だから、その人がいなくなった瞬間、彼女にとって世界は生きる価値を失った。どれだけ世界の全てに優しくても、おだやかでも、彼女にとって世界は少しも大切でなかった。愛せるだけでいい、と彼女は言っていたけれど、ずっと彼女は世界そのものには絶望をしていて、それでも、愛することだけを糧に生きてきたのだろう。

 エルゼリが妖精ならこの二人はどうなのだろう。この二人には既に本当の意味で大切な人はいない。失われたあと、それでも生きるしかない二人。寂しさに耐えきれず、アランに手を差し出したエドガーと、寂しさに耐えきれず、その手を取ったアラン。二人にとって互いは一番に幸福を祈った存在ではないからこそ、二人ともエルゼリのような妖精ではいられず、自らの罪深さや、相手への苛立ちや、それこそエルゼリがいう悲しみや憎しみが二人をちゃんと「生かして」いるのではないかと思う。エドガーはアランを不死身にしたことを悔いてはいるだろうけど、でもその悔いが彼に正気をもたらしているのではないか。(アランがエドガーのいない隙に女の子をからかい、エドガーが帰ってきた途端にあっさり彼女たちに興味を失うのがとても好きなエピソードだった。それでもアランはそういう自分の姿をエドガーには見せないし、そのことを話さないのだ。これは、自分がエドガーにとってのメリーベルではない、ということを知っているから、のようにも思う。互いが完全に相手にのめり込むことがないからこそ、その関係に人間臭さと身勝手さがいつまでも残り、「小鳥の巣」では少しも求められなかった他者への淡い執着をこの関係にこそ見出して、人として「世界」に絶望せずに生きていくことができるのではないか。完璧な相手ではないからこそ、二人はエルゼリにならなくて済んでいるのではないか、世界を見つめ続けられるのではないか。新しい出会いに、心を閉ざさずに済んでいるのではないか。)
 エルゼリは、誰にでも優しいけれど、全てに対して心を閉ざしていたのだろうなと思う。恋人だったその人以外、もうきちんと見つめることもできないから、だから誰にでも優しいのだ。

 エドガーにとって、メリーベルは特別な存在だった。でもいつまでも、メリーベルを巻き込んでしまったという罪の意識があり、彼女の幸福のために離れようとした時も、彼はやはり孤独に耐えられなかった。彼にとってそのころはまだ、唯一残された世界こそがメリーベルだったから。それを失って、人として生きることを今にも忘れてしまいそうな時、自分が最も愛しているわけではないことをちゃんとわかっている友人が、隣にいるというのが救いになる。「メリーベルの代わりだ」と自覚しているアランが私は好きだし、それを言えるアランが好きだ。同じことをアランもエディスにしようとしいてると、気づいて止めようとするエドガーも。彼は、アランがどれくらいエディスに救われるか、本当は一番知っていたのだろう。



・『ポーの一族』(萩尾望都・著)
https://www.shogakukan.co.jp/books/volume/44679


次回は7月19日、毎月第3水曜日更新です。お楽しみに!

最果タヒ

さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。最新詩集『不死身のつもりの流れ星』が発売中です。

http://tahi.jp/

イラストレーション by カワイ ハルナ 
Instagram:@haruna_kawai

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。