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高木完『ロックとロールのあいだには、、、』

第10回の4:「僕は高校2年の夏休みからずっと夏休みなんです」。ずうとるびの新井さんは、おでこに稲妻や丸を描いた

2022.01.26

Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ

暴走族は、今でいうところのヤンキーのルーツでもあるのだが、70年代半ばにはまだその呼称は無く、「ツッパリ」と、呼ばれていた。自分のまわりにも何人かいた。そんな彼らにとっての月曜日のトピックは決まって週末の話、、、

「土曜日の夜とかは集会があって、すごい人数が集まるんで。僕も誘われて行ったことはありましたが、もう仕事を始めていたので、毎週のように行く、というのはなかったです」

首をかしげながら、当時の思い出を語ってくれた、すうとるびの新井康弘さん。たまたま参加したときのことに尾鰭がついて、逗子まで届くエキゾーストノートとなっていた可能性も、ある。そんな新井さんが音楽を始められた経緯はどうだったのだろう?

「グループを組んだきっかけですが、『笑点』で山田隆夫くんが座布団10枚貯めたので『念願のレコード・デビュー』ということになって。そのレコード、てっきり彼が1人で出すものだと、僕は思っていたんですが、でも当時、フォーリーブスが絶大な人気を得てまして。僕を含めて、『笑点』にも男が4人いたので『グループにして出しませんか?』ってことになったんです」

「ただ、僕はまだ学校行ってましたし、当時、歌手みたいな格好して歩いている人たちを、僕らは学ラン着て『なんだあいつ?』ってかんじで見てた。それが、自分がレコード出すとなると、勝手なイメージですが『長髪にして、ロンドンブーツをはかなきゃいけないんじゃないか』と、思ったわけです。なので『とんでもない、やるなら3人で』と、言ったんですが、『1曲だけだから』と、言われて」

「エレックレコードから出すことになって。そうしたら『やるなら自分たちで楽器も演奏した方がいいよ』となるんですが、山田くん以外は楽器の経験がない。当時エレックレコードには、泉谷(しげる)さんや(吉田)拓郎さんもいましたし、ディレクターやプロデューサーもヤマハやポプコンに出たことのある人たちがいたので、僕らはその人たちに楽器を習うんです」

「僕は鼓笛隊の経験もあったので、やるならドラムをやりたかったんですが、江藤(博利)もドラムをやりたがっていました。ただ、なかなかドラム・セットで叩かせてくれないんですよ。楽器の担当を決める前に椅子を叩いて、ドラムの練習。ひたすら椅子。それに我慢が出来なくなって、江藤はギターになって、僕がドラム。そこから2か月、練習しましたね」

しかし、そこまで音楽には興味なかったのに、何故ボウイ?

「そこらへんは郷に入ってはじゃないですが、面白くなっちゃったんですね。やればやるほど。で、聴くだけじゃなく、音楽雑誌も見るようになったある日、デヴィッド・ボウイの写真を見たんですよ。『カッコイイなあ』と、思いましたね。それからレコードを聴いたんです。アルバム『ピンナップス』。結局学校も辞めちゃいました。僕は高校2年の夏休みからずっと夏休みなんです(笑)」

当時の日本でグラムといえば、ファッションも含め実践なさっていた第一人者が加藤和彦さんなのだが、その加藤さんと接点があったことを新井さんは語る。

「『ずうとるび』という名前は、もともと加藤和彦さんのバンドの名前で。ビートルズを芸能界用語みたいに逆さに読んだ名前で『ザ・ズートルビー』という。フォークル(フォーク・クルセイダーズ)のメンバーでやってて、『水虫の唄』っていうシングルを1枚だけ出されてて。それを知ってた山田が、加藤さんに『この名前をいただけないか』と交渉をして。『いいよ』となって、僕らがいただいた名前なんです」

1974年2月、ずうとるびデビュー。

当時のライブを収録したアルバムでは、半数以上を占めている山田隆夫の詞曲によるオリジナル・ナンバーと並んで、新井さんの歌によるボウイのカバー曲を聴くことができる。『サフラジェット・シティ』だ。演奏にはサポート・バンドとしてタイムマシーンというグループが参加している。

新井ソロの『サフラジェット・シティ』もタイムマシーンの演奏。ボーカル、演奏、共に荒削りだが、プロト・パンクのようにも聞こえる。

「いまは男性がメイクすること自体珍しくないですが、当時はまだいなかったですね。沢田研二さんもメイクされてなかったですし。自分も眉毛は剃れなかったですけど、ドーランで潰して。デヴィッド・ボウイを真似て、おでこに稲妻描いたり、金粉で丸を描いたり。ラインやシャドウをオーバーめに入れたりしてました。演奏は自分たちでやる時以外はタイムマシーンってグループがやってましたが、そのグループがやる前は、つのだひろさんのスペースバンド(キャプテンひろ&スペースバンド)にやってもらったりしていました」

そんなずうとるびは再結成して、今また活動を再開している。

「再結成のきっかけは、江藤が自分の座組があるんですが、『それの昭和歌謡コメディに出てくれないか』というのがありまして。『みんな元気なうちにやろうよ』ということになりまして、集まったんです。

その後、活動はCDリリースにまで、つながる。プロデュースと詩曲は上田ケンジ。

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(つづく)

左から、取材時の新井さん、そして高木さん

次回は2月23日、毎月第4水曜日更新です。お楽しみに!

高木完

たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。

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イラストレーション by UJT
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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。