SCROLL DOWN

BEAT CAST

NAOTO OKUTOMI

圧倒的な発信力の源泉。「BOY」オーナー、奥冨直人の頭の中。

2021.04.09

Photo:Shuhei Kojima / Text:Yuichiro Tsuji

渋谷・宇田川町に店舗を構える「BOY」。そのオーナーの奥冨直人をひとつの言葉で形容するのは難しい。ショップオーナーとしてファッションを提案する一方で、音楽にも造詣が深く、DJやスペースシャワーTVのパーソナリティも務める。その発信がとにかく濃くてユニーク。一筋縄ではいかないというのが正直なところ。では一体、彼の頭の中にはどんなアイデアやイマジネーションが広がっているのか。それを知るべく、彼がオーナーを務める宇田川町のショップ「BOY」を訪れた。

自分が好きなことを、自分の言葉で発信する。

最初に「BOY」のはじまりからお話を聞きたいです。

奥冨

「BOY」は元々、古着屋を運営する会社が新店舗としてスタートするプロジェクトでした。僕がまだ服飾の専門学生だった頃で、先輩から誘われて立ち上げ段階から携わっていたんです。でも、 色々あってその先輩が辞めてしまって。それがオープンの1ヶ月前だったんですよ。

それはまた急な話ですね。

奥冨

それで僕だけが残る形になって、“僕にやらせてください”と。元々お店をやりたくてファッションの専門学校に通っていたので、社長と相談しながらすべての業務を引き継いで、なんとかオープンまで漕ぎつけました。それが2009年2月のことです。

学校に通いながら、ここでも仕事をしていたと。

奥冨

そうなんです。学校の課題は友達に協力してもらったり。当時は渋谷の円山町に店舗があったんですけど、路面店だったんで外装のデザインも自分で考えて、施工も自分でドリルを打ち込んだりして。もはやアパレルというより、本当に施工業者みたいな感じでしたね。だけど、なんでもDIYでやらせてもらえたので、オープン前からいろんな経験ができました。今は会社から独立して宇田川町にお店を移転したんですが、ここも自分で内装をアレンジしています。

今でこそ「BOY」は奥冨さんの趣味趣向が色濃く反映されていると思うんですが、独立前はどんなお店だったんですか?

奥冨

僕は物心ついた頃から音楽が好きで、独立前のお店も音楽の影響が強い古着屋でした。渋谷のクラブやライブハウスでよく遊んでいて、そこでできた友達が遊びに来ることもよくありましたね。バンドやDJをやっている人もいて、店の休憩時間にライヴを観に行ったり、自分のイベントにも遊び来てくれたり。根本はあまり変わりませんが、当時の母体は古着の会社なので、置いてあるのはヴィンテージの服だけだったんです。

なるほど。

奥冨

転機が訪れたのは2011年。DAOKOの動画がネットに上がっていたのを見たときでした。まだ80回くらいしか再生されてなかったんですけど、当時15歳だった彼女の作品に衝撃を受けたんです。SNSでお互いの存在を知り、その後「LOW HIGH WHO?」というレーベルからCDをリリースすることを知って。友達伝いで繋がりあるレーベルだったので、どうにかその作品を「BOY」に置きたいと思ったんです。ただ、会社に相談した当初はあまり理解されている感覚がなく、そのまま話も流れてしまいそうで。利率も古着市場と比になりませんし、そもそも会社の中でも異例の出来事で。でも、なかなか食い下がらない僕の態度に、最終的には仕入れていいということになり、結局3日で20枚くらい売れたんですよ。店頭でかかってるだけで、これ誰ですか? ってお客さんとの会話からどんどんと。そのときに、自分が好きな音楽を届ける手段として“これだ!”と思いました。

現在の「BOY」の母体のようなものができあがったと。

奥冨

そうですね。僕は元々テレビっ子で、小学生の頃から芸能や音楽、映画などのエンターテインメントにものすごく熱中していて、学校から帰ってきてから夜までずっとテレビを見続けている子でした。その他に、ラジオも他県の電波を引っ張ってきて聴いたり、今振り返るとすでに「BOY」の母体の片鱗をのぞかせる少年だったかもしれませんね。

これは何でしょう?

奥冨

近年実家で発見したんですけど、小学生の頃に作っていた学級新聞です。これってまさに僕が今やっていることと同じだと思って。自分の好きな音楽や映画を、自分の角度から自分の言葉で発信していたんです。誰も求めてなかったと思うので自己満かもですが(笑)。

今の表現活動におけるルーツみたいなものですね。

奥冨

ファッションに興味を持ち始めたのも、様々なミュージシャンの服装を見て惹かれてからで、音楽誌が自分にとってのファッション誌の役目を担ってもいました。当時、並行していたストリートファッションの文化に影響を受け、そこからは完全にジャンルレスというか、あらゆる服や音に魅力を感じて、括られるのも難しいところに転がっていました。実際に渋谷付近でもよく遊ぶようになり、お店を任されるようになったこの街で、自分の価値観で選んだ作品がCDとして第三者に届いていくのがすごく嬉しくて、なんとなく自分の感覚が光った瞬間でもあったわけです。中学の頃は音楽の仕事に携わりたいという気持ちもあったので、このことがきっかけでその気持ちはどんどん高まっていくんですが、会社的にはあまりそのことは求められておらず。

それで独立の道を選んだわけですね。

奥冨

そうですね。自分の中でもモチベーションが色んな方向に持っていかれてしまい、独立して1人でやったほうがいいんじゃないかと。名前を引き継ぐことと、新しいお店の場所は自分で探すということで、半年の時間をもらって宇田川町で探しました。

ずっとオルタナティブな感覚を大事に生きていきたい。

宇田川町というのは譲れないポイントだったんですか?

奥冨

ざっくりではあるけど「渋谷系」というジャンルが生まれたのもこのエリアだし、タワレコの初号店があったのもすぐ隣だったり、それなのにアパレルのお店が少ないことも含め、渋谷で何か始めるならずっとこの辺りでやりたいという気持ちがありました。それで2014年に独立したんです。

独立後は音楽作品と古着を扱っていたんですか?

奥冨

そうですね。オープン日から音源を10タイトルは常時置いていて、自分がやっていた音楽イベントも再開しました。独立する前は10個くらい歳が離れている先輩方に仲良くしてもらうことが多かったんですけど、独立後は自分よりも年下のミュージシャン、Yogee New WavesやDYGL、水曜日のカンパネラといった若いアーティストと仲良くなることが多くて。彼らがよくアーティストの友達を連れて遊びに来てくれましたね。それで2015年くらいにぼんやりと、今のお店のベースとなるようなものが見えきたんです。

奥冨さんならではのお店の在り方ですね。

奥冨

でも、2017年くらいに音楽のサブスクが世間的に浸透して、その時、今以上にCDが売れない時代がやってくるだろうなと思ったんです。それからどういうわけか音楽系の媒体から取材依頼が増え始めて、「自分の好きなことをそのまま表現している人」みたいな感じで取り上げてもらえるようになって。その時メディアの方々とも知り合う機会が増えて、自分の好きなものを発信できる場所がお店以外にもできたんですよね。

お店を運営する上で、大事にしていることはありますか?

奥冨

ずっとオルタナティブな感覚を大事に生きていたいと思っています。「時代に何を添えるか?」というのがお店のテーマではありますね。それがどんな形でもいいんだなというのがここ数年で見えてきたし、それによって自信もついてきたんですけど、コロナの影響で先が見えない時代になって、ちょっと悔しい思いを今はしています。独立してからはずっと突っ走ってきたけど、それが通じない時代が到頭やってきたというか、決まったやり方である必要性がどんどんなくなってきていますよね。ここに座敷を作ったのも、駄菓子屋のおばちゃんみたいに、接客業もお客さんが来たら立ち上がるくらいの感覚でいいのかなと思ったからなんです。まぁ、そもそもそんなに接客をするタイプでもなかったんですけど(笑)。

とはいえ、オンラインだけに頼るでもなく、お店はずっと開け続けているわけですよね。

奥冨

場所は絶対に必要です。ネットでなんでもできる時代ですけど、僕はそれに慣れなくて。ここでお客さんと話しながら、その人の言葉の温度感とか、仕草とか、生のコミュニケーションが好きで信じてやっているので。

当たり前のことかもしれませんが、奥冨さんと「BOY」は一心同体のような気もするんです。奥冨さん自身がテレビやラジオに出演したり、雑誌の取材を受けたり、DJの活動をしたりしながら、積極的に表舞台に出て好きなものを発信していて、それに共感したお客さんがここに来るのかなと。

奥冨

そうですね、だからこそお店に来づらい層もいるのかもしれません。でも、自分は前に出たいからやってます。もっと古着屋として集中していたら、また違ったアプローチもできると思うんですけど、僕自身いろんなことをやってきたからこそ興味を持ってくれる人がいてくれる。振り返ると強烈ですね。10代の頃からずっとDJもやっているし、イベントも開催して、独立してより自由に動き回れるようになっていろんな人と関わる仕事が増えて。企業案件のお話もいただけるようになって。徐々に自分の動き方が変わってきたし、今はそれで良い時期だと思っています。

詳しく話を聞けば聞くほど、奥冨さんが何をしている人なのかよくわからなくなりますね(笑)。

奥冨

僕も自分のことをなんて伝えればいいのか分からないんですよ(笑)。「BOY」が軸ではあるんですけど、他にも色々やっているので。

活動が多岐に渡っている中で、「自分はこういうことをやりたい」というヴィジョンのようなものはあるんでしょうか。

奥冨

やりたいことをやれるって、「やらない?」って声をかけてくれる人がいたり、タイミングでもあるじゃないですか。だから、そこに半分身を任せている部分もあるんです。ただ、人から見たら多岐に渡っているように思うかもしれないけど、「BOY」にプラスされていっているだけで全部ひとつのイメージなんです。

そこにはやっぱり「BOY」が軸として存在するんですね。

奥冨

この取材が始まる前、実は福井県にいて。仕事で何泊かしてきたんですけど、街に人が全然いなかったんです。そういう場所から渋谷へ戻ってきたときに、何か重たいものを感じて。センター街を歩きながら、僕は「BOY」があるからこそずっと渋谷にいるし、ここで起こる何かを信じている。ライブハウスやクラブがたくさんあって、友達もここにたくさんいるから、自分も渋谷に来ているのかなって。シンプルに自分が助けられている場所なんだと分かったんです。

ずっと渋谷にいて、この街は当然のように日々変化しています。景色も、いる人たちも、カルチャーも。でも、一方で変わらないことってありますか?

奥冨

マイノリティやアンダーグラウンドというものがずっと変わらずに存在し続けていて、それが分裂する瞬間もあるんです。例えば、地下でヒソヒソと盛り上がっていたカルチャーが、急にスポットを浴びて変化していく。その変化を受け入れられずに離れていく人もいる。渋谷はずっとそういうことが繰り返されているような気がします。若い人が集まるからこそ、何かが生まれるエネルギーがあるし、一方ではそうした分裂が起こる儚さもあるというか。

そうした分裂が起こりやすい街にいながら、奥冨さんは柔軟にその変化を受け入れているようにも思います。

奥冨

変化を受け入れているというよりも、そもそもぼく自身の受け皿がどんどん広がっているような感覚ですね。元々ポップミュージックが好きだったけど、そこからマイナーな音楽も聴くようになって、自分の好きな世界が広がっていくのと同じです。服に関しても、世間的にはダサいと思われているような服だって、自分だったらかっこよく提案できる。素材さえあれば、なんでもうまく料理できる自信があります。自分がいいと思うものをどうやって人に届けるか、みたいなことに関しては、うまくやれると思うんです。

ファッションには笑いが足りない。だから、せめて自分だけはふざけていたい。

10代の頃、今の自分がこうなっていると想像していましたか?

奥冨

してないですね。でも、想像以上にはなっています。独立したことがいちばん大きいかもしれません。もちろん責任感を感じながら仕事をするのは当たり前ですけど、それ以上に思いっきり楽しめることが自分にとってはやりがいなんです。できる限りふざけたことをしたいと思っているし、バカバカしいと思われることをしながら、でもちゃんと生活できているっていうのが最強だと思っているので(笑)。以前、マジックミラー号でポップアップイベントをやったんですけど、これも一枚の景色として写真に残ったときに爆笑できるからなんです。今のファッションには圧倒的に笑いが足りないと思っているので。せめて自分だけはふざけていたいですね。

5年後にどうなっていたいですか?

奥冨

変わらずに生活できていたらいいです。もちろん、自分やお店がアップデートするというのは前提で。だけど、どうなるか分からない時代になってきたから、将来のことは無理に考えないようにしているというのもあります。あと、昨年から親と頻繁に連絡を取るようになって、自分がやっていることをよく話すようになりました。両親は居酒屋を経営していて死ぬまで続けると言っているんですけど、その場所は残したいなと思っていて。自分がそこで何をするかは分からないですけど、親が作ったものを残したいという感情が生まれてきました。地元は埼玉ですが、お店をやりながら、渋谷と地元に恩返しというか貢献したいなと。今はそう思っています。

BOY OWNER

奥冨直人

渋谷・宇田川町にあるショップ「BOY」のオーナー。お店に立つ一方で、DJとして様々なイベントに出演したり、自身でも主催している。またスペースシャワーTVによる配信番組「スペトミ!」も担当するなど、多岐に渡り活動中。
Instagram:@tommy_okutomi(https://www.instagram.com/tommy_okutomi/
https://boyfandm.theshop.jp/

PROJECT TOP

BEAT CAST

次の東京を創造していく表現者にスポットを当てたインタビューコンテンツ。