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IN THE CITY DIGITAL

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』

連載 第十七回:かわいい適応能力÷かわいい狂気

2023.02.15

Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ

 世の中には「そうなってるからそうなんだよ」で押し通されることが多すぎて、自分もそれで飲み込んだものを説明もできないまま「そうなんだよ」と他人に話しているかも知れず、そういうことにみっともなさとかずるさとかたまに感じてしまうしうんざりするが、そもそもそうやってよくわからないものをよくわからないまま受け入れて、そのうち逆立ちしながら生きることとか、麺を噛まずに飲み込むこととかそういうのまで「そうだからそうらしい」と受け入れかねない人間というのは、よく考えると面白くて、かわいいものなんじゃないかと思う。それを他人に押し付けて、無理強いするのはどうかとも思うけど、でも純度がどんなに高い人間もいろんなことをうっかり信じてしまったり、いつのまにかよくわからない理屈を当たり前だと受け入れてしまうことがある。そういう時に恥じる前にさ、なんかそういうので世界を乗りこなしていくのって、ヤバくて面白くて、笑えるねって思えたらそれは楽しいことじゃないか? 最近そう思うのは『放課後ひみつクラブ』を読んでいるからなんですが……。

 最近一番更新を楽しみにしている作品です。
 ずっとひっそり読んでいた『放課後ひみつクラブ』。先日、最新話を読んでいたら「生物が浴びると冷凍食品になってしまうビーム」が出てきて、それを浴びてミックスベジタブル(冷凍)になってしまったヒロインを主人公が助けるためにレンジでチンして、無事に元に戻っていた(よかったぁ~)というよくわかんないけどわかんないまま突き進みすぎて受け入れるしかない展開があり、面白すぎて耐えられずツイッターに書いた。別にこれが特に異常、とかではないのだ。この作品はずっとこの調子、ずっとこんな塩梅で、もうこのお話の異常な箇所に自分が全部気づけているかの自信はない、レンジでヒロインを冷静にチンする主人公、というのはあまりにも振り切っていて「これはまだ異常だと気付ける……!」とおもったが、お話の中ではそこの異常性には特に触れられず、ヒロインがカニクリームコロッケになるつもりで冷凍食品になったのにミックスベジタブルになったことに静かにショックを受けていた。こんな作品に触れていたらもう半年後には、冷凍食品ビームくらいで変とは思わなくなっているのかもしれないな。

『放課後ひみつクラブ』の大筋は、少し変な世界の少し変な学校で、少し変な主人公の男の子が、すんごく変なヒロインに出会い、彼女が学校の秘密を暴く!と大張り切りで奇行に出るので(心配だから)ついていくことにする、という展開で、1話完結でいろんな秘密を暴いたり暴かなかったりする。「変な子に巻き込まれる」系のお話であるはずなのに、ヒロインの変よりそもそもあちこちでスルーされる異常が多すぎて、まともなところは少しもなく(主人公の猫田くんも普通のふりをしてるだけでだいぶおかしい)常識として「それはおかしいだろう」という視点をだんだん維持できなくなる。
 ギャグ漫画に思えなくなってきて、多分いつか私はこの漫画の方がまともで、現実の方がギャグだと思い始めるのではないかしら? 読んでいるうちにいつのまにか世界が上下逆になっていてもおかしくはないし、鏡の国に入り込んでしまっていてもおかしくない、読み進めるたびに自分がスルーしてしまった「本当なら変な部分」が蓄積されどんどん後戻りできなくなる予感がある。迷宮を歩き回るような作品で、「まとも」に戻れなくなる感覚がすごく気持ちよくて面白いのです。
(これはたぶん、全てのセリフが阿吽の呼吸すぎるところにもあるのです。他人と他人が話しているけれど、完全に全員が同じリズムで言葉を話す。一人の作者がそうなんだからそういうところはどんなフィクションにだってあるはずだけれど(そしてそれに歯向かうために普通はそれぞれの発言を独立させて、別人同士の会話の齟齬を生み出すはずだが)、この作品はその同一性を言葉のリズムの良さであえて研ぎ澄ましたんじゃないかというくらい、全セリフが一つの歌みたいだ。それがまた、おかしいはずのことをスルーさせる、追い風になる、心地よく読んでいたら自分があっというまにいろんな「変なこと」をスルーする生き物になってしまう気がする、だんだんやばい本の説明をしてる気がしてきましたが、かわいくてとても常識的な読みやすくて楽しいまともなお話よ!(ほんとかな?))

 このお話を面白く感じられるのは、読んでる私が人間だからで、無駄に世界やよくわからないルールに順応しすぎてしまう性質を持っているからじゃないかなぁ。たとえばAIはこのお話を楽しめるのかしら、無駄に世界に適応しすぎてしまう人類の前のめりな適応能力につけ込んだようなこの作品は、人類が未熟で隙だらけだから多分面白いのだと思う。冷凍のミックスベジタブルになってしまったヒロインにそんなにギョッとせずに、封を開けて、お皿にミックスベジタブルを出している主人公を見てる時に「やばい、スルーしそうになったが、やばいシーンだこれ」と思った。ギリギリで気づけた!という感じが何度も続く、私が人間だからこそ持つ「適応能力」という異常なほどのスルー能力と、私の社会人としての理性がバトルを始める。私はたぶんそこにこそスリリングな面白さを感じたんだと思います。一緒に狂いかけてる自分にドキドキときめいてしまう。世界は理不尽で、私もすぐその理不尽に染まりがちでそういう乱暴な世界でどれだけ真っ直ぐでいられるだろうともっと真面目なテーマの時によく考えるけれど、適応能力そのものがこんなにもいとしくて、人間とかいうテキトーな生き物に生まれてよかったなと思うことはなかなかなかった。それだけでこのお話はきっととても価値があるのよ。

 フィクションは現実よりもだいぶ潔癖な目に晒されがちで、あんなに理不尽で説明のない「決まり」に染まっている現実に生きておいて、物語になった途端「そうだからそうなんだよ」だけでゴリ押しするような「世界観」なんてあまり受け入れられず、リアリティや整合性という言葉ですべてを正すことが求められる。けれどそういう意味で言えばリアリティや整合性なんて存在しないのが現実で、その現実に本当の意味で接近してその世界で「まとも」で「正しい」つもりでいる自分を面白おかしく感じられるフィクションが読めたとき、私はフィクションの力を感じる。物語は、共感のためだけでも、自分と立場が同じ人を見るためだけでも、ifの現実を見るためだけでもないのよ。そうした現実にすっかり適応した人の歪んだ視界に合わせた「現実」ではなく、その歪みを全部取り除いてもう一回、全部のおかしさに戸惑わなくちゃいけない「現実」を人にぶつけて、その人の「リアルの自分」を起こすことが物語にはできる。自分がどれだけ日常でいろんなものをスルーして、いろんなものに慣れて、歪み続けているのか、気付かされる。自分の歪みをリアルに感じる、それはフィクションにしかきっとできないのだ。そしてその時の後味がゾッというよりどきどきで、なんだかすごくかわいいなってなれるのが、きっとたぶん『放課後ひみつクラブ』。



・放課後ひみつクラブ(福島鉄平・著)
https://shonenjumpplus.com/episode/316112896941522424


次回は3月15日、毎月第3水曜日更新です。お楽しみに!

最果タヒ

さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。最新詩集『不死身のつもりの流れ星』が発売中です。詩の展示を2023年2月に大阪で開催中。

http://tahi.jp/

イラストレーション by カワイ ハルナ 
Instagram:@haruna_kawai

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TOKYO CULTUART by BEAMSが2017年まで展開していた文芸カルチャー誌『IN THE CITY』。短篇小説やエッセイ、詩など、「文字による芸術」と、それに呼応した写真やイラストレーションなどを掲載したもので、これはそのWEB版になります。