BEAT CAST
SEEWALL CLUB DIRECTOR
SOTARO TAKAHASHI
高橋窓太郎のアイデアが、影に光を当てていく。
© 2020 BE AT TOKYO.
BEAT CAST
TAKANOSUKE YASUI
2022.08.12
過日、公開された高橋窓太郎さんの記事。彼が始動させた「海岸線の美術館」は、負の遺産とも揶揄されることもある宮城県・石巻の巨大な防潮堤に絵を描き、美術館にしてしまおうというプロジェクトだ。その絵を描く担い手というのが、本記事で紹介する安井鷹之介さん。絵画×彫刻という革新的なアートを生み出す彼は、いかにしてその手法を生み出し、どんな思いで石巻の壁に絵を描くのか。東京の下町にひっそり佇むアトリエで、話を聞いた。
ー
安井さんの作品はどれもシリアスなので、人柄もどこか寡黙で、ピリっとした雰囲気の方だと思ってたんです。
安井
全然ですよ(笑)。よく言われますけどね。
ー
それにしても、彫刻って巨大ですね。
安井
この辺は、今度上海で展示をするので、そこに向けて制作中です。実際の人の1.5倍のサイズがあります。
ー
ここにアトリエを構えたのは、いつからなんですか?
安井
学生のときからなので、もう8年くらいになるのかな。
ー
お生まれは愛知県でしたよね。
安井
そうです。高校までは地元にいて、そこから東京藝大(東京藝術大学)への入学を機に上京してきた感じです。
ー
早速ですが、絵や彫刻は、小さいときから嗜んでいたんでしょうか?
安井
そうなんですけど、安井家って実は格闘技一家で、創作活動の時間だけが唯一の逃げ場で……。
ー
といいますと?
安井
親父は水球(水中の格闘技とも言われる)だったり、キックボクシングをやっていたんです。ぼくの倍くらい体がでかくて、ハーレーに乗っているような人で。その流れで弟はムエタイをやっていたし、妹は今は自衛隊にいますし、一番下の弟はボクシングをしています。
ー
安井さんも格闘技を?
安井
ぼくはサッカーを。
ー
教育も厳しそうですね。
安井
小さいときは、ジェットスキーで沖まで連れていかれて、そこで海にぶん投げられて「泳いで帰ってこい」みたいなのとか(笑)。
ー
……過酷ですね。
安井
他にも、市民プールに一緒に行って、朝9時から夜5時まで足をつけちゃダメとかもありましたね。ゴーグルの中は涙でパンパンでしたよ。何度も死にかけました(笑)。
ー
お父さまはなぜそこまで、厳しい教育をされていたんでしょうか?
安井
理不尽を与えたかったと今は言っています。真偽はわからないですが(笑)。まぁなんとかそれが今にも活きていて、あまり悩まないし、どれだけしんどくても、当時を超える苦しさはないですね。
ー
体育会系一家のなかで、唯一の文化系だったわけですね。
安井
そうです(笑)。
ー
そんな家庭で、アートに触れることはできたんでしょうか?
安井
実家の敷地内に納屋があって、そこに農耕具とか大工道具が置いてあったんです。小さいときは、それを使って遊ぶのが好きで、穴を掘ったり、鎌で木を削ったりして遊んでました。その時間だけが唯一の救いで。
ー
本格的にアートをはじめたのはいつからだったんでしょうか?
安井
中学からは美術教室に通わせてくれるようになって、そこではじめて油絵に触れました。
ー
家族も驚いたんじゃないですか?
安井
隠れて何か作っていたのは知ってくれていたので、そんなに驚かれはしなかったですね。
ー
その時点でもう、芸術家を志していたんでしょうか?
安井
当時はただただ好きだったというだけで、そこから進路を考えるときに、美術科のある高校があることを知って、そっちに進もうと。
ー
そこから晴れて、美術科のある高校に入学したわけですね。
安井
そうです。ただ、それまでもサッカーは続けていたので、漠然と高校でもサッカー部に入るんだろうなと思っていて。なんですけど、その高校は、サッカーも野球もめちゃくちゃ強い高校で、入学式当日に「美術科の生徒は忙しいので、サッカー部と野球部には入部しちゃダメ」とお達しがあって。もう大喜びですよね。やっと辞めれるんだと(笑)。
ー
そんなに辞めたかったんですか!?(笑)。
安井
やらされてるという意識しかなくて、常に辞めたいと思っていたんです。それで、サッカーをやらなくていいと知ったときに、いろいろと吹っ切れてスイッチが入ったんです。
ー
そこから、グッとスキルアップしたんでしょうか?
安井
大好きな創作に没頭しまくったし、モチベーションは常に高かったと思います。朝5時から夜8時まで、自分から進んで絵を描いてましたから。サッカーの朝練はあれだけ嫌だったのに。
ー
当時は絵だけを描いていたんですか?
安井
粘土を使った創作もしてましたね。
ー
そして、東京藝大に入学されると。
安井
一浪して、彫刻科に入学しました。
ー
なぜ彫刻科だったんですか?
安井
高校の恩師が彫刻家だったんです。竹田正美さんという方なんですけど、学校が休みの日に彼のアトリエに呼ばれたんです。そのアトリエっていうのが、山奥にある超でかい工場の跡地で。そこに、山かと思うくらいどでかい抽象彫刻が100個以上置かれていて、その光景が超ショッキングで、ある種くらっちゃって、彫刻科に入ろうと決めました。
ー
東京藝大の彫刻科はイメージ通りでした?
安井
とりあえず、最初の授業が「死なないようにするためのレクチャー」なんです。彫刻って巨大な木や岩を使うし、溶接もするし高圧の電流も使うので、いかに死なないようにするかを学ぶところからはじまるんです。
ー
藝大って、もっとフワフワしていて、おしゃれなイメージでした。
安井
油絵科とかはそうかもしれないですけど、彫刻科はマジでピリピリしてるんです。教授の助手もよくキレてましたよ。「あぶねーだろ!」みたいな感じで。そういう意味では、彫刻の世界はマッチョイズムが横行していますね。
ー
安井さんの幼少期と重なりますね。
安井
ですね(笑)。みんな安全靴を履いて、ヘルメットをかぶって、革手袋して、ほぼ現場仕事みたいな感じで。エアコンも粉塵でイカれちゃうから、夏も暑い中、巨大な扇風機のみだし。
ー
イメージが真逆でした。
安井
ただ、そういう助手や教授、先輩などが放つ“高圧的な態度”は、彫刻自体が持っている性質だったりもしていて。例えば、中世では王様から指示を受けて、王様の彫刻を作って、それを街中に設置して市民に権力を見せつけるわけです。空間を支配する力を彫刻は持ってるんですよね。
ー
たしかに銅像なり、そうした彫刻を中心に街が形成されている気がします。
安井
彫刻と絵画は対比されて語られることがあるんですけど、絵って、持ち運びが自由で好きなところに飾られるけど、彫刻は不動産的な役割が強い。置いたら、基本的には動かさないですよね。
だから、ぼくの作品は、彫刻に軽やかな性質の絵を持ち込んで、彫刻の支配力を弱くしたい思いがあるんです。きっとその理由は、幼少期からずっと説教であったりパワーを浴びてきた自分がいて、そこに対するカウンターみたいなものだと思うんです。
ー
安井さんの彫刻作品は、発砲スチロールみたいなものが骨組みなんですね。
安井
軽やかにしたい思いと通じるんですけど、基本的には人力で運べるものを作りたくて。
ー
そうして藝大を卒業するわけですが、そこからはアート一本で?
安井
基本、作品の制作だけでやってます。
ー
いきなり、アート一本で生活していけるものなんですね。
安井
実は大学時代に2年休学していて、その間にアートだけで食えるようにするための状態を作ったんです。
ー
具体的に、何をされたんですか?
安井
タレントに事務所があるように、アーティストはギャラリーに属するという方法があるんです。もちろん、それ以外のスタンスもありますけど、ぼくはギャラリーに属したくて。なので、いろんなコンペに出品して、そこでギャラリーのオーナーに声をかけてもらって、なんとか休学中にいまのギャラリーに所属させてもらったんです。
ー
そのギャラリーの方は、安井さんの作品の何に刺さったんでしょうか?
安井
最初に言われたのが「作品が日本人っぽくない」と。どこの国の人が作ったかわからないのがおもしろいって言われましたね。それと、絵と彫刻を組み合わせた凸凹の表現も新鮮だと。
ー
この作風が安井さんが安井さんたる所以かと思いますが、どう作っているんですか?
安井
まずは石膏で凸凹のキャンバスを作って、そこに絵を描いています。
ー
凸凹のキャンバスを作る時点で、作品はイメージできてると。
安井
いえ、全然。だから、人なんかを描くときは「なんでこの部分が盛り上がってんだよ……」とかありますよ。一方で、そうした彫刻に振り回されるっていうのが大事だと思っています。ある種の彫刻の支配力に左右されている感覚は大切で。
ー
安井さんの作品は、どんな方が買われてるんでしょうか?
安井
同世代も意外と多いですよ。それと男女問わず、買ってくれている印象もありますね。
ー
購入された方とも会われたりしますか?
安井
大学卒業したてのときは、コレクターの方からご飯に誘われたこととかもあって、それも楽しくて参加させてもらってたんですけど、最近は少し控えようと思っていて。
ー
それはまたどうしてですか?
安井
作品を作っているときに「あの人はこんな色使いが好きだよな」とかっていう、制作中の自分にとって超くだらない瞬間が稀に訪れるんです。それを避けるためにも、最近は会わないようにしていて。
ー
安井さんは、いまのアートシーンとは少し違う領域にいると思うんですけど、その立ち位置から、最近のアートブームをどう見ているんでしょうか?
安井
趣味の問題で、良し悪しもないとは思いますけど、日本の流行的にはストリートっぽいものが主流ですよね。ヒップホップも流行っているし、ある意味、消費しやすいテーマが多いのかなと思っています。だけど、ぼくはストリートでも育っていないし、あまりリアリティがないからやらないですけど。個人的には、もっと渋いところが好きで。
ー
たしかに、安井さんの作品に比べると、そうしたものはポップですよね。
安井
ですね。ぼくはやっぱりシリアスなんで(笑)。
ー
いま、ライフワークとして宮城県の石巻に通われていて、高橋窓太郎さんが主宰する「海岸線の美術館」では、描き手として参加されています。
安井
高校のときに、ガラケー越しに震災の惨状を見てたんです。その当時、勇気がなく何もできなかったですけど、波にさらわれた人のなかにも自分と同じくものづくりが好きな人がいただろうし、美大の受験を目指してた人がいたのかもな、とか思っていて、そうした思いも背負ってやっていかなきゃって気持ちがずっとあったんです。
で、大学時代の2013年に、南三陸にはじめて行って、瓦礫のなかで偶然にも朽ちたノミを見つけて。そこで、ちょっと運命めいたものというか、見えない存在に「彫刻をやれ」と言われてんなと思って。そんな体験の積み重ねがあって、窓さん(高橋窓太郎)に声をかけてもらったときは、快諾した感じです。
ー
いまも定期的に通われているんでしょうか?
安井
月1くらいで通ってます。
ー
窓太郎さんも言っていましたが、防潮堤に触れることは、とてもセンシティブな問題なんですよね。
安井
そうですね。アンタッチャブルと言ってもいい。なので、事前に取材や交渉を進めるときも、住民の方々の存在を常に頭の真ん中に置いて、常に気を張ってます。意図しない形で伝わってしまったりだとか、誤解を生んでしまうのはよくないので。
ー
9月からはついに防潮堤に絵を描くことになっていますよね。これが実現したのも、安井さんや窓太郎さんの「ネガティブな防潮堤に対して抗いたい」という思いが伝わった結果だと思います。
安井
だとうれしいですね。かれこれ、もう2、3年通っているので、少しは馴染めたのかもな、と。クラウドファウンディングもスタートしたので、ぜひ見てみてください。
ー
実際に、防潮堤は想像を絶する大きさなんですよね。
安井
高さが10メートル近くありますからね。そのせいで、冬場は影の部分に積もった雪が日にあたらないから、溶けずに残る部分もあったりと大変みたいです。そしてなにより、防潮堤はそこの景色を変えてしまった理由のひとつ。そこに、ぼくが絵を描くことによって「壁として見る時間」が「絵を見る時間」になったらうれしいです。窓から見えるお宅もありますし、いつかは家に絵を飾るのと一緒のような感覚になってくれたら嬉しいですね!
ー
最後に、安井さんの表現活動のゴールを教えてください。
安井
ゴールというのは難しいですけど、制作の時間は全て未来のためだと思っています。彫刻やアート作品は間違いなくぼくが死んだ後にも残っていくものだし、いまのためだけにやっていない意識はありますね。
ー
いずれは海外進出も考えていますか?
安井
そうですね。ギリシャが彫刻のメッカなんですけど、道中に大理石の彫刻がゴロゴロしているし、街と彫刻が調和しているんです。ギリシャかどうかはわからないけど、どこかのタイミングでヨーロッパには展開していきたいと思っています。まずは、今年の年末にはじめての海外展示を上海でやるので、そこで何かきっかけを掴めたらと思っています。もちろん、石巻での活動は続けていきながらですけどね。
ARTIST
安井鷹之介
1993年生まれ、愛知県出身。スポーツの強豪校でもある愛知の東邦高校を経て、東京藝術大学彫刻科に進学。卒業後は「MAHO KUBOTA GALLERY」に所属しながら、彫刻と絵画を組み合わせたアートの制作を続ける。2022年9月より、宮城県石巻市に建てられた防潮堤に新たな景色を描くプロジェクト「海岸線の美術館」にて、巨大な壁画を制作。完成は同年11月を予定。
次の東京を創造していく表現者にスポットを当てたインタビューコンテンツ。